自分専用のマグカップに注ぐのは、小さな子どもも好んで飲むものでその様子をマルコスに目撃されると彼は納得したように、お前のはそれのおかげか、と言った。一息ついた時の飲み物はお決まりでミルクなのだ。他の皆のようにコーヒーは飲めない。砂糖やミルクを入れたとしても苦みは完全には消えないし、どうにも好きになれなかった。甘党のわたしとは合わないのである。お子様と言われようが、ミルクをやめようとは思わない。冷たくても温かくても、舌についた瞬間に甘味が広がる美味しいミルクが世界の飲み物で一番好きなものなのだ。ついでにココアも好きである。目が合ったマルコスは首を傾げるわたしを見て、ある場所を指差しながら厭らしい表情をした。それだけでも不愉快極まりないというのに、指差す物が分かってしまって彼を睨みつける。ガタイが良く、身長が高く、マーズ・ランキングも高い彼にとっては、わたしなど怖い対象にもならないのだろうけれど、精一杯の反撃だった。ミッシェルさんが一緒にいたのなら、きっと代わりに殴ってくれていたとは思うけれど、不運なことに周りを見渡してもマルコスの味方になりそうな人しかいない。アレックスに、燈さんに。燈さんだったら少しはわたしに味方をしてくれそうな気もしないこともないけれど、どうせ他の二人に丸め込められて敵になる未来しか見えない。となると、やはり頼るはミッシェルさんなのである。
マルコスが優勢な睨み合いを続けていると、彼の向こう側にタオルを首から掛けた慶次さんがコップを持っているのが見えた。透明なコップには溢れそうなくらいに注がれた水が揺れている。バランスを崩せば今にも零れてしまいそうなくらい注がれた水は、慶次さんの口に流し込まれていく。こくり、こくりと喉が動いていた。マルコスよりもそっちに気を引かれたわたしは釘付けになる。飲み干し終わったコップを口から離し、手首の辺りでくちびるに残る水を拭き取るその姿から目が離せなかった。



「おーい、名前?」
「……ま、マルコスまだいたの」
「は?お前が睨みつけてきただろ!」



慶次さんは走り込みが終わった後の水分補給だったのかな。女子相手に喧嘩を買ったようなマルコスは、不機嫌そうにわたしの視界を遮るように目の前に立った。当然、慶次さんの姿も見えなくなる。そもそも、マルコスがわたしに吹っ掛けてきたのだから、悪いのはわたしじゃなくて彼なのにね。邪魔なマルコスを無理矢理手で押しやると、突然のことに驚いた彼が少し隙を見せたので、チャンスとばかりに抜け出した。マグカップにはあと半分ほど、ミルクが入っている。ちゃぷん、と音を立てたそれを持ってわたしは慶次さんの傍まで辿り着いて彼を見上げた。
この人は鬼塚慶次という。手術ベースはモンハナシャコ。虹色にキラキラと輝く美しい生き物かと思えば、繰り出されるパンチは激しいものであり、またモンハナシャコの甲殻は非常に硬いと言われている。性格は凶暴であると聞いている。慶次さん本人は真面目な人で、毎日同じ訓練をコツコツ積み重ねる努力の塊だ。それでいて、優しい人である。わたしが彼のことを意識し始めるのも知り合ってから、わりと早かったように思う。誰にも慶次さんがすき、だなんて言っていないので本当にわたしだけが知っている想いだけれど。



「慶次!名前を出せって」
「……マルコス、女の子をいじめるのはよくないな」
「そうだよ、マルコス」
「お前ずるいぞ……」



マルコスが追いかけて来ると分かっていたわたしは、近くにあるテーブルにマグカップを置くと、慶次さんの後ろに駆け込むように隠れた。さすがのマルコスも慶次さんを盾にすると手が出せないようで悔しそうにしている。慶次さんの背中からこっそり顔を出しながらも、手はそっとジャージの上に添えるような形で彼に触れていた。情けないことにその指先は震えていて、慶次さんにバレてしまうかもしれない。こんな形で彼に近づく機会があるなんて思っていなかったのだ。頼れる大きな背中に初めて触れたわたしは、自分の心臓の音を掻き消すように大きな声を出す。



「マルコスさっきわたしの胸のこと言ってたよね?破廉恥!」
「褒めたんだよ!」
「えっ!?あんなので褒めたとか言わない!女心分かってないね、マルコス」
「そもそもお前があんなお子様なもの……」
「いいのー!ミルク美味しいもん」



本気で言い合いをしていたのなら慶次さんが仲裁してくれるかもしれないが、これは喧嘩というレベルではなく、幼稚な言い争いといったところだ。マルコスに言いたいことを叫んでいても、わたしの意識は常に慶次さんにある。コップを持ったまま固まっている慶次さんはわたしたちの言葉を聞いているのか、それとも呆れているのか分からない。思わず背中のジャージをぎゅっと掴んでしまった。慶次さん助けて、とばかりに。女心をまるで分かっていないマルコスを撃退してください、なんて気持ちを込めながら。



「ミルクを飲んでいたの?」
「は、はい」



わたしの腕を掴んだ慶次さんはマルコスにもよく見える位置へ誘導するように引っ張った。マルコスと目が合うと、相手は慶次さんを味方に付けたと思ったのか、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。慶次さんの隣に立たされたわたしは掴まれた腕が気になって、正直マルコスどころではなかった。彼から視線を外すとキョロキョロと辺りを無駄に見回す。憧れを抱き、恋心を密かに募らせた相手である男の人がわたしの腕を掴んで離さないのだ。じんわりと熱を持ち始めたのは腕だけではなく、頬も同じように赤くなっているように思う。そこで再度目が合ったマルコスは、目をまんまるにして珍しい物でも見るかのような表情を浮かべていた。恋愛センサーが敏感な反応を見せたのか、マルコスはその次に恋路を掻き回してやろうというような悪い顔をしていた。わたしの弱みでも握ったつもりだろう。



「名前、お前」
「わっ!マルコスだめ!だめー!!しっ!」
「……随分としおらしくなりましたこと」



ニヤニヤと言った表現が似合うマルコスは、今にもわたしの気持ちを慶次さんに暴露しそうだった。ここでバラされてはわたしの秘密の恋が壊されてしまう。人が集まっているところで宣言されて周知の事実となることは譲れても、本人に知られるだけは勘弁して欲しい。マルコスの口封じには一体何が必要なのかと必死に考えるわたしをくいくい、と引っ張るのは慶次さんだった。いつの間にかわたしのマグカップをその手に持っていて、こちらに差し出したのである。解放された腕を伸ばして無言でマグカップを受け取る。こんなに真っ赤な顔を見られては、もしかしたら慶次さんも察してしまうかもしれないと思ったわたしは、なるべく顔が見えないように俯いた姿勢をとった。マグカップのミルクはさっきよりも冷えていて、量が増えているような気がする。



「どうせ飲むなら冷たいのがいいよね?そんなに顔を赤くしてるし」
「……えっ、あの」
「アミリアが入れ替えてくれたよ」



慶次さんの勘違いで救われたわたしはふう、と一息つく。もうこのまま、マルコスも無視して部屋に帰ってこの熱い頬を冷まそう。でも、わたしのために慶次さんが用意してくれたミルクのことを考えると冷ますことなんて出来ないかもしれない。部屋の冷凍庫にある保冷剤でも頬に当てて冷やさなきゃ、床を見ながら考えて足を動かそうとすると、両肩に大きな手が下りてきてわたしは動くことが出来なかった。顔を覗き込んできたのはその手の持ち主で、もちろん慶次さんだった。真っ直ぐな瞳に射抜かれたように、もう視線を逸らすことすら許してくれない。完全に固まってしまったわたしに追い撃ちでもかけるかのように、お構いなく慶次さんは口を開く。



「ミルクでもいいじゃないか。名前ちゃんに似合っているよ、かわいいと思うし」



マルコスが噴き出すように笑い始めたのが耳に届いたけれど、わたしの頭の中は慶次さんの言葉で埋め尽くされている。もうマルコスが最初にミルクでいろいろ言ってきた件はすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。慶次さんが女の子としてかわいいと言ったのか、それともわたしをフォローするための言葉だったのか、それは彼自身にしか分からない。真相を尋ねる勇気なんて、これっぽっちも持ち合わせていなかったわたしはしばらくミルクが飲めなかった。



Title:さよならの惑星


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