いつもよりもアルバイトが長引いたために帰る時間がすっかり遅くなってしまった。遅くなるときは連絡を逐一入れるようにと念押しされていたのにも関わらず、連絡ひとつよこさなかったわたしのことを、きっとゆかりは怒るだろう。風花ちゃんは怒るとまではいかないけれど、優しく注意してきそうである。二人のお説教を思い浮かべつつ、恐る恐る寮の扉を開けると、ラウンジには人の姿が見えなかった。自室に戻るためには絶対に通らなくてはならないラウンジで、誰にも遭遇しなければ、お説教タイムを逃れることができるかもしれない。足音を忍ばせて、一歩ずつ静かに歩いて行きながら、どうしてラウンジに誰もいないのかを考えた。試験が近いからだろうか。それとも今日はタルタロスへの出撃が前もって休みだと伝えられているからだろうか。ソファーを行き過ぎようとした瞬間に、わたしの帰りを知らせるかのように何かが吠えた。びくりと震えた背中を自分で擦りつつ、足元を見てみれば、嬉しそうに尻尾を揺らすコロマルがわたしを見ている。人差し指を口元に当て、お願いだから静かにしていて、と相手を怯えさせるくらいの剣幕で顔を近づけた。突然のことに驚いたコロマルの耳と尻尾がしゅんと垂れる。さすがに牽制しすぎたかな。コロマルに罪は何もないのに、わたしのわがままを押し付けてしまった。ゆっくりとしゃがみ込んだわたしは腕を伸ばして、ごめんねとばかりにコロマルの頭を撫でる。



「コロマルに迷惑をかけるなんて感心しないな」
「……さ、真田先輩」
「コロマルがかわいそうだ」
「ごめんなさい」



この場の空気を読まずにお腹の虫が鳴く。真田先輩は呆れたように大きな溜め息をついた。コロマルはわたしの周りをくるくると回りながら、小さく跳ね上がる。キッチンで簡単に料理を作ろうと思っていたから、コロマルにも何か作ってお詫びしよう、そんな考えが過る。わたしがお腹を空かせていることを理解しているであろうコロマルは早速食事の催促をしてきた。まんまるの瞳で真っ直ぐに見つめてくる時はお腹が空いているサインなのだ。散歩に連れて行って欲しい時はまた違った表情をする。



「コロマルにも何か作ってやれよ。俺は部屋に戻る」



真田先輩が喋っている間に、食事ができると大喜びのコロマルは階段を駆け上っていく。この場に取り残されるのはわたしだけらしい。食事を作る時はコロマルが傍で尻尾を振りながら待っていてくれるものだと思っていたのに、一番にその予想を裏切られた。更に真田先輩も部屋に戻るというものだから、本当にわたしはこのラウンジにひとりきりになってしまう。同じ建物の二階、三階にみんながいるのにも関わらず、高校生にもなってひとりが嫌だなんて。小さな子どもでもあるまいし、どうしてこんなに寂しいと思ってしまうのだろうか。わたしの視界に映る赤いカーディガンがだんだんと遠ざかっていく。小さくなっていくその姿がまるで消えてしまいそうな感覚に襲われる。わたしは気がついたら、真田先輩のシャツの裾を捕まえていた。いつも整った服装の先輩だったが、赤いカーディガンから白いシャツがはみ出していたおかげで、わたしは裾を掴むことができた。無意識だったけれど力が入っていたようで、真田先輩の動きが制限される。コロマルを追いかけていくように向かっていた背中がぴたりと止まった。ゆっくりと振り返った真田先輩は困ったように笑っていた。小さな子どもの面倒を見るときのように。



「苗字、どうした」
「……誰もいなくなるから、思わず」
「お前もまだ子どもらしいな。天田とあまり変わらないぞ。いや、天田の方がひょっとしたら大人なのかもしれないな」



裾から手を離せずにいると、完全に振り返った真田先輩がわたしの手をそっと掴んで、シャツから離すように促した。しょうがないからここにいてやる、笑い声と共にそんな言葉が降ってくる。その一言だけで安心したわたしはおとなしく手を離す。真田先輩はわたしの前を通り過ぎるとキッチンへと向かった。その背中をスキップする勢いで着いていくわたしはなんて単純な女なのだろう。でも、真田先輩の優しさが素直に嬉しくてしょうがなかった。赤いカーディガンの背中を追いかけていると、途中で先輩が白いシャツをズボンに入れ込もうとしていたせいで肌色が一瞬見えて、わたしは瞬間的に顔を背ける。なんだか見てはいけないものを見てしまった気分だった。



「苗字?早く来い」
「は、はい」



近くに置いてあった椅子をキッチンに引っ張ってきた真田先輩はそれに腰掛けると、どこから持って来たのか分からないが、雑誌を取り出して読み始めた。わたしはそんな先輩を背中に簡単な調理を始める。時間も遅いので、消化に良い物を作ろうと帰り道で考えていたので調理が詰まることはなかった。コロマルのご飯も胃に優しいもので作ってしまおう。
ペラリ、とページを捲る音と調理音だけがキッチンを支配していて、空間を共有しているというのにわたしと先輩は一言も交わさなかった。それでも、ひとりきりではないということはわたしを妙に安心させてくれる。真田先輩がすぐ傍にいてくれる。ただ、それだけのことなのに、心地良いのだ。わたしという存在は確かに在って、今を必死に生きている。平和な日常から一変して、死と向き合うような日常に放り込まれてしまったけれど、そんな生活の中にも幸せは隠れているのだ。真田先輩は色恋に疎い、そんなことは十も承知だけれど、わたしは別に恋を成就させたいわけではない。真田先輩の近くにいられたら、それでいいかなって。今までの学校生活だったら、上級生である真田先輩との接点なんて全くと言っていいほどないのだ。それが同じ寮生活になって、ある目的を共有するようになってからこんなにも距離が近づいた。大変喜ばしいことなのである。



「先輩」
「ん?」
「一緒にいてくれて、ありがとうございます」
「……大したことはしてないさ」



湯気の上がる料理を小皿に注ぎ分けたわたしはラウンジのテーブルへと運ぶ。匂いを嗅ぎつけたコロマルは準備万端とばかりにテーブルの近くに姿勢よく座っていた。箸や湯飲みを用意したわたしは、コロマルの前に専用の小皿を置くと、今まで積み重ねてきていた疲れが一気に出てきたようでソファーに勢いよく飛び込むように座る。キッチンが見える場所に椅子を用意して座っていたはずの真田先輩もいつの間にかソファーにやって来ていて、わたしの作った料理に釘付けになっていた。少しばかり距離を空けるように横にずれたわたしの心の内なんて微塵も知らない先輩は同じソファーに座る。じっと料理を見つめているのは荒垣先輩の料理と比べているからだろうか。わたしに勝ち目などないことは最初から分かっている。だって、荒垣先輩の料理は思わず頬っぺたが落ちてしまうほど、美味しいのだから。真田先輩の横顔から視線を逸らしたわたしはいただきます、と手を合わせる。コロマルも小さく鳴き声を上げて、料理に向かっていた。そんなコロマルの様子を見ながら、箸で摘まんだ卵焼きとサラダを口に運んでいると、不意に真田先輩が身を乗り出したようでわたしの視界に飛び込んできた。驚いて箸を落としそうになったのは秘密である。



「そういえば、苗字の料理は食ったことがないな」
「みんなといるときはあまり料理しませんからね」
「……そ、そうだな」
「もしかして、真田先輩」



ふいっとわたしから顔を逸らした先輩の耳が少し赤くなっていることに気づいてしまった。気づかない方が冷静でいられたと思うけれど、気づいてしまったからもう遅い。わたしとコロマルだけでなくて、真田先輩の分も作った方がよかったのだろうか。でも、先輩は食事を済ませているはずだ。影時間も近い、こんな時間なのだから。



「お腹が空いているんですか?」
「……っ、ああ、そ、そうだな」
「ねえ、先輩、それとも」



お腹が空いているだけで耳を赤くするはずがない。数々の恋愛話を聞き、その目で見てきたわたしにも多少察することはできるのだ。鎌をかけるなんて今までのわたしだったら不可能に近いけれど、今日のわたしなら。



「……そ、その、わたしの料理食べたいとか?あはは、でもまさかそんなこと」



なんとも微妙な言葉になってしまったけれど、真田先輩の反応はどうだろうかと伺ってみる。逃げ道も上手く作れたので、先輩の反応がどうあってもわたしは全力で逃げることができる。



「……興味が、ある」
「えっ……?」



真面目な顔で言い切った先輩の頬には耳と同じく赤みが差していて、ラウンジの明るい電灯が一層引き立たせていた。冗談交じりの言葉に明確な返事をされて、わたしは逃げ道を一気に失った。まるで真田先輩に塞がれたようだった。もう逃げられないぞ、とばかりに迫ってくる先輩にわたしは震える指先で箸を懸命に動かした。そして、ようやく摘まんだ一口を真田先輩の前に差し出す。戦闘スタイルは敵に突っ込んでいくように豪快なクセに、こういうところは控えめな先輩は恥ずかしそうにそっと口を開けるのだった。ゆっくりと箸を進めれば、真田先輩に捕らえられた箸の先はもちろん動かせなくなる。口に物を運ぶのだから、お互いに溢さないようにとの心理が働いたのか、いつの間にか意識的に空けていたはずの距離が縮まっている。でも、今はどうしても離れられない。先輩はこんなに近づいてはいけない存在であるのに。しばらくして箸を置いたわたしが再度その箸を使う勇気なんてあるはずがなくて、何も言えずに真田先輩の言葉を待つ。料理をほんの少しだけれど、ご馳走してこんなに近くに座っているわたしが今日中に間接キスまで済ませるなんて無理な話なのだ。美味いよ、と言って頭を撫でてくれた真田先輩がどんな表情をしているかなんて知らない。その表情を見る勇気さえもないのだから。


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