いつもと違う顔を見せる街がそこにはあった。普段の夜ならば、静けさに満ちているために人が出歩く姿を見ることは少ない。けれども今晩は色鮮やかな光や豪華絢爛な装飾、食事を囲むようにして大勢の人で賑わっていた。外を歩けば、人々の笑い声、子どもたちのはしゃぎ声が絶えない。本当に夜がこの街に訪れているのかを疑うほどだった。カチリ、大きな時計の針が大きな音を立てて、時の進みを知らせる下を一人の青年が大きな荷物を抱えて駆けていく。青年の腰には剣が身に付けられており、走る度に揺れていた。仕事を全うしている間は甲冑に身を包み、表情もあまり崩すことのない青年だったが、走っている今は軽装で表情も柔らかいものであった。街の階段を颯爽と下りていく青年は騎士であり、名をフレン・シーフォという。フレンは階段の二、三段辺りを軽く飛び下りると、周りにいた老人や子どもたちに手を振る。子どもたちはフレン兄ちゃんだー、とその場でぐるぐると彼を中心に駆け回り始めた。苦笑したフレンは彼らを落ち着かせるために、子どもたちに止まるよう手振りをして優しく微笑む。昼間ほどはっきりとは表情が見えないものの、子どもたちは満足したようにフレンが行こうとしていた道の方を空けた。子どもに別れを告げ、老人たちには一礼するとまた足を進める。大きな紙袋を片手にぎゅっと握るように持っているフレンはどこか心を落ち着けていられず、いつもの冷静さに欠けていた。そんな彼が向かった先は幼馴染の家かと思われたが、実はそうではなく、別の家へと向かっているのである。フレンが立ち止まった家の灯りはカーテンの隙間から外へと少し零れだし、中に人がいることを知らせていた。トントン、と控え目にノックをしたフレンは自分の服装を見える限り見渡し、正されているのを確認する。家の中からは女の中でも高めの声であろう女性の返事がした。家に入ることを了承されたフレンはそっと扉を開ける。 「遅かったね」 「すまない」 「ううん、気にしてないよ」 「……ただいま」 今日この家にフレンが訪れるということは二人の中で認識されていたが、突然の彼の一言に家主である名前はひどく驚いた。二人は決して同棲をしているわけではなく、フレンは自分の住むところを別に構えているのである。けれども、フレンの口からは当たり前のように自分の家へ帰ってきた時の一言が発せられたのだ。名前は返す言葉をすぐに見つけることができずに、彼から視線を逸らして先程まで料理を作っていた台所の方を向く。鍋はグツグツと煮え滾り、蓋の隙間から食欲を刺激するような香りが玄関近くまで漂ってきていた。材料も勿論フレンが来るからと多めに使って、男の人はたくさん食べるからと量も増やしている。名前は今日、フレンと食事を共にするのだ。そう考えると、彼女の口からも彼に負けないくらい自然と、フレンを迎えるための言葉が紡がれる。 「……おかえり」 名前は照れを隠すようにエプロンの裾を掴んで、両手を無意味に遊ばせる。それから彼女は後ろに手を回すと蝶々結びの結び目に指を引っ掛けて、一度解くともう一度綺麗に結び直す。それを見たフレンは料理を作るために彼女が着ている純白なフリルエプロンを途端に意識させられるのだった。ただいま、おかえり、たったそれだけのやり取りに過ぎないのだが、一緒に住んでいるような感覚に落ちていくようで、彼の方も名前と同じように頬に熱を集める。部屋の中は外に比べて幾分も暖かく、寒暖の差は明確だった。頬が熱を持ったのは外があまりにも寒くて、暖かいところに来たら頬が温かくなっているだけだとフレンは心の中で言い聞かせる。それでもフレンは、目の前にいる名前は料理まで作った上、家に迎えてくれ、唐突にただいまと言った自分に反撃を食らわせるかのように不意打ちでおかえりと言ってくれる彼女のことをどうしても奥さんのようだと思ってしまったのだった。一旦照れが引いた名前は何も言わなくなったフレンを見ては、首を傾げる。 「フレン」 「……っ、すまない。なにかな?」 「ご飯にする?それともお風呂?」 フレンは一瞬その言葉の後があるのだと思い込み、名前の言葉の続きを待っていたが、すぐに自分の期待に気づいて頭を大きく振って深呼吸をした。玄関先で黙り込んだかと思えば、深呼吸をする彼の姿を見た名前は両手を口元に持っていくと、弧を描いた唇を隠すようにして小さく笑う。緊張しているのはお互い様だ、と思いながら。フレンは自分がクスクスと笑われていることに気づくと、悔しいと思いつつも先に温かい料理を食べるという趣旨を名前に伝えた。彼女はフレンを玄関から連れ出すように左腕を掴むと、急かすようにテーブルの近くまで連れて行く。彼が厚手のコートを脱ごうとした時、後ろに回り込んだ名前は背中側から抜き取るようにそのコートを奪うと、あらかじめ用意しておいたハンガーに引っ掛け、手に持っていた鞄を近くのボックスの中に収納した。用意周到もいいところである。それほど名前はこの日を楽しみにしていたのだ。 フレンは仕事柄、休暇というものがなかなかない。心労で倒れてしまうのではないかと周りが心配するのだが、彼は頑なに大丈夫を繰り返すロボットのようだった。それを見かねた部下たちが必死に休ませようとするも、結局フレンの口に上手く丸め込まれてしまう日々が続いている。そしてようやく彼が休むことになったのが、明日一日である。だから今日は仕事が終わってそのまま名前の家でゆっくりするという呑気な生活を送っているのだ。いつもだったら、次の日に備えて自宅に帰ったら夕飯、風呂、少し仕事、就寝の流れである。 フレンはさっきも頭に過ったことを繰り返すように思い出していた。頭の片隅からさえも追い出したはずだったが、やはりその考えは抜けてくれないようですぐに舞い戻ってしまう。結婚した同僚の話では、一緒になった最初の方こそ奥さんが健気に尽くしてくれていたものの、しばらく経てば自分でやってと言われるようになり、寂しいことも増えた、という。奥さん、その響きがフレンにとっては新鮮でどこか羨ましいものだった。鍋をかき混ぜて、皿に盛りつけている名前の姿を見ている彼の顔つきは愛おしい物を優しく扱うときのようなものに間違いなかった。壊れないようにそっと、そっと。そうすれば、自分にも優しさが返ってくる。少年時代によく聞かされたものだとフレンは思った。 けれども、自分の都合で名前を振り回してしまうことを同時に彼は恐れていた。家に帰ることも少なく、彼女に寂しい思いをさせてしまうのは今の自分を見つめ返せばよく分かることである。 「もう、難しい顔しないの!」 水にさらした手をフレンにくっつけた名前は悪戯が上手くいったような子どもの表情を見せる。難しいことを今考えるのはやめよう、そう思ったフレンは彼女が片付けてくれた鞄の近くに紙袋をそっと置くと、名前が料理をよそった皿をテーブルに運んだ。野菜と肉、それから果物と二人の食事にしては多すぎるくらいの量が並んだ食卓は立派なもので、どれも美味しそうだとフレンは思った。名前が手を合わせると、真似をするように手を合わせる。 「名前、ありがとう」 「フレンのためですから!」 「いただきます」 フレンが口に入れると肉が蕩けていく。熱すぎて食べることを躊躇ってしまうと思ったが、想像以上に食べるのにちょうど良い熱さで、目の前で果物を頬張っている名前を見て、ニコリと笑った。フレンと目が合った彼女は硬直したものの、気を紛らわすかのようにまた果物へと集中を戻す。彼はこれが名前の照れ隠しであることをよく知っていたため、機嫌良くそのままご馳走を平らげてしまったのだった。かなりの量を作ったのにフレンの胃袋に吸い込まれてしまうように綺麗になくなった皿を見て、張り切って作り過ぎたと思っていた名前は安心した表情を浮かべる。 「片付けは僕がするから、名前はお風呂に入っておいで」 「まっ、待って!フレンはお客さんなんだから、フレンが先にお風呂入って」 「名前……」 「いいから、ね?フレンはお風呂!」 反論は認めないと言わんばかりに脱衣所までフレンを着替えと共に押し込んだ名前はふう、と一息ついて、自分が時間をかけて作り上げた料理の皿を台所に運んで、水道の蛇口を捻った。流れ出す水が表面上に見える汚れだけを洗い流していく。名前は泡でいっぱいになったスポンジをぐるぐると皿に擦りつけた。すると、脱衣所から先程押し込んだはずのフレンが顔を出して、彼女の背中を見ており、少し大きな声で叫ぶ。振り向いた名前の視界には顔を覗かせたフレンの首、鎖骨、片手が見えた。もちろん、何も纏っていないので肌色が光に照らされ、はっきりと目に映る。フレンは全く恥ずかしげのない様子だったが、名前からすれば成人男性の裸には抵抗があるもので、小さく悲鳴をあげた。それがあまりにも可愛らしいもので、つい加虐心が芽生えてしまったフレンは意地悪そうに笑って、自分が伝えようとしていた用件とは違うことを言葉に出す。 「名前も一緒に入るかい?」 本当は洗濯物をどうすればいいのかを尋ねたかったのだが、そんなことよりも台所にある薄黄色のマットの上でわなわなと震えている名前をからかうことが、フレンの中で最優先事項であった。冗談で言っているのに、すぐに言い返してこないところを考えると彼の中でも少し期待が生まれる。もし、彼女が一緒に入る、なんて言ったらどうしよう、と。 邪な、僅かな期待を胸に名前の返答を待つフレンの顔は騎士団の一員とは思えない程に緩みきっていて、いつも顔を合わせる同僚や後輩には絶対に見せられるものではない。彼の親友であるユーリ・ローウェルにこの顔を見られたのなら、しばらくこのことでからかわれるだろう。 「ふ、ふれ……ん、もし」 「うん?」 「もし、わたしが入るって、言ったらどうするの……?」 予想を大きく外れて切り返されたフレンは返す言葉を失った。自分が次に何を言うかで、この後の名前の運命は大きく変わってくるのである。それだけは充分に分かっていたため、慎重に考えなくてはならない。フレンのことを周りの人々は良い人だと言い、女性からは黄色い声を浴びることも多々ある。好青年で、紳士で。それに騎士である。申し分ない程のスペックの持ち主だ。だが、彼も男なのである。据え膳食わぬは男の恥という言葉があるように、フレンも悩んでいた。普段の自分であれば絶対に口にしないようなことも、今ならば簡単に言えてしまいそうで怖いくらいだった。心臓が大きく音を立てるのは果たしてどちらのものなのか、またはどちらともなのか。 「名前、意地悪だったね、ごめん」 その瞬間に力が抜けたように座り込む名前はマット上にペタンとお尻をつくと、そのまま動かなくなってしまった。彼女の姿を見たフレンはお風呂に入るために脱いだ服をもう一度身につけて、名前の元へ慌てたように駆け寄る。向き合うように座り込んだフレンは彼女の両肩を抱き寄せて、自分の胸の中に閉じ込めるように捕まえた。たった少し悪魔の誘惑に負けてしまって、意地悪をしてしまった彼だったが、酷く後悔に苛まれて名前に顔を見られないように隠す。フレンの頭が肩に乗ったのがわかった名前は彼の背中にゆっくりと手を伸ばす。男の人だってわかっていたはずなのに、いつも優しいフレンに限ってそんなことはないだろうと勝手に思っていた自分もいたことを少し反省しながら。 「でもね、フレン。わたし、一緒にいてくれることはすごく嬉しいの。お風呂は、その……恥ずかしいけど」 「じゃあ名前、一緒に寝てくれないかい?」 「えっ?今日泊まるよね。ちゃんとベッド二つあるよ。ひとつは簡易だけど」 「そうじゃなくて、一つのベッドで寝るってことだよ」 名前が最後のフレンの言葉にぴくりと反応したのを彼は逃さなかった。ぎゅっと抱きしめていた腕を解くと、名前の背中を小さな子どもをあやすように撫ではじめる。そのおかげで気持ちよさそうに目を瞑ったままの彼女はフレンの胸中でリラックスすることができた。フレンは、今度は娘でも抱えたような気分だった。奥さんの次は娘、名前がコロコロと姿を変えることが悪いと思う反面、自分の前でいろんな姿を見せてくれるのは素直に嬉しく思っている。 そして、名前は控えめに頷いた。フレンの胸にちょうどおでこがこつんと当たり、彼も彼女が承諾してくれたのが分かる。 「……うん、わかったからフレンは」 「お風呂、入ってくるよ」 「フレン、フレン!」 名前がお風呂に入っている間にソファーで寝てしまっていたフレンは彼女に揺り起こされて、寝ぼけながら開けたばかりの瞼を擦った。しっとりと濡れた髪の毛から雫がポタポタと名前の巻いているタオルに不規則な間隔で落ちている。湿った髪の毛を一束掬い上げたフレンは遅かったね、と一言零し、近くにあったドライヤーを手に取ると、名前に隣に座るように目配せをした。彼女の身体はお風呂上がりでポカポカと温かく、隣に座っているフレンにまでその熱は伝わってきている。彼がお風呂に入った時とはまた違う熱を名前から受け取っていることをフレン自身は自覚していた。ドライヤーの電源が入ると同時に、温風が吹き出して名前の顔に直撃する。思わず目を閉じた彼女にフレンは少し笑いながら謝罪をし、髪の毛に向かってその温かな風を送った。揺れる髪の毛はフレンの顔に当たり、くすぐったい思いをさせる。彼はそれがちょっかいを出してくる名前のようにも思えて、片手でドライヤーを当てつつもそよぐ髪を弄ぶかのように逆の手を動かした。 「名前」 「なに?フレン」 「もう、眠るだけなんだね」 風力を中にしていたフレンは自分の言葉に重ねるように一気に風力を上げた。一層風の音が強くなったため、フレンの言葉は名前の耳に届くことはなく、かき消されてしまう。もう一度聞き返した彼女に答えることなくフレンはドライヤーだけに集中することにした。ソファーは二人分の重みですっかり沈み込んでおり、名前が座り込んだ時にカーペットの上に落ちてしまったクッションはそのままになっている。 ドライヤーのスイッチを切ったフレンはそれを脱衣所の所定の場所に片付けるために立ち上がる。名前はそんな彼の背中をぼんやりと見つめながら、ふわふわとした心地よさによって夢に誘われていくようだった。髪を梳かすフレンの手が安心できて、すっかり気持ち良くなっていたのである。ぱちり、ぱちり、まばたきの間隔が一定ではなくなり、目を閉じている時間が長くなった頃、名前の身体が一瞬だけふわりと浮かび上がる。驚愕した彼女は目を開けた。 「名前」 「わ、フレンかあ。びっくりした」 「名前、聞いて欲しいことがあるんだ」 名前の前に差し出されたフレンの手の上には小箱があった。彼女の手よりも一回り以上大きなゴツゴツした手の指がその箱の蓋に触れる。目を離すことのできない名前を一度確認したフレンは、自分にしか分からない震える指をゆっくりと動かして、少しだけ力を入れた。開いた箱の中には小さな星のように光っているものが白い柔らかなものに包まれ、その存在を大きく主張して、名前の前に姿を現した。 「名前、結婚しよう」 |