日課であるトレーニングを終えて、自室に戻ってきた俺はマルコスやアレックスとの会話を思い出していた。トレーニング中に全く関係のない話をしていた俺は、途中でミッシェルさんの蹴りを食らったものの、有益な情報を手に入れることができたのである。慶次さんと一緒によくトレーニングをし、話をしているのを見かける名前ちゃんのことだ。彼女は俺たちと同じようにM.O.手術を受けた仲間の一人であり、俺たちの中でもよく話題に取り上げられている子である。一時期、慶次さんと付き合っているのではないかという噂が流れ、落ち込む俺とは対照的にマルコスとアレックスは盛り上がっていた。しかし、本人に確認したところ、彼女から見れば慶次さんはよいお兄ちゃんという感覚らしい。そこでホッとしたように俺が息をつくと、両肩をマルコスとアレックスにポンと叩かれたものだ。態度をコロコロ変えるこの二人は味方か否かよく分からない。というのも、彼らは単にこの状況を楽しんでいる、ただそれだけなのだろう。
有益な情報というのはアレックスが聞いてきた話であり、なんでも名前ちゃんは耳かき掃除が大変上手いらしいということである。俺が思わず生唾を飲み込んでしまったのは、アレックスがこっそり耳打ちをしてきたからだ。耳かき掃除を彼女に頼めば、実に快く引き受けてくれると。耳かき掃除といえば、俺たち健全な男からすると非常に美味しい状況になるというイメージしかない。もはや耳かき掃除は目的ではなく、そういうシチュエーションをもたらすための手段に過ぎなかった。膝枕をしてもらえる上に、視線を少し上に上げたのなら、思春期真っ只中のような男子である俺たちには刺激が強すぎる程の光景が待っていると考えられる。自室にある鏡の前で邪なことを考えていた俺は、自分の顔を覗き込む。鏡の中の俺は完全に鼻の下が伸びている。全くこれだから欲望に忠実な青年というものは、なんて小さく自嘲した。
髪の毛を軽くタオルで拭きながら、掛け時計をチラリと見やればもうすぐ15時を指そうとしていた。今頃、名前ちゃんはどうしているだろうか。夜、彼女の部屋に訪れるのは下心が見え見えであるが、この時間だったら特に疑われずに済むかもしれない。仲間たち、特に女子たちに見つかったとしても時間帯の違いでだいぶ与える印象が変わってくるだろう。今しかない、俺がそう決心するまでに短針は一体何回動いただろうか。逸る気持ちを抑えつつ、ドライヤーのコンセントを些か雑に差し込むと、手を素早く動かして髪の毛を乾かす。15時だから、女子はお茶でもしているのだろうか。でも、もしかしたらまだトレーニングをしているという可能性も否めない。少なくとも俺たちは普通の人間とは違うのだから。







「名前ちゃん」
「燈くん?どうしたの」



シャワーを浴びた後の自室での服装はいつも適当なものだったが、彼女の前に姿を晒すと考えるとそんな格好はできなかった。それに、彼女に見られるのだから少しでも好感を持ってもらいたい。ドアを開けて姿を見せた彼女は自室にいたからか、とても薄着だった。目に毒、という言葉が似合うかもしれない。紐で吊られたワンピースで、下着の紐と思われる物も視界に飛び込んできた。首元、それに肩が露わになっていて、まるで男を誘う夜着を思わせる。どこに目線を向ければいいか分からなくなった俺は、しばらく視線を彷徨わせていたが、彼女が大胆に見せているのなら遠慮なんかいらないのではないかという結論に辿り着いた。肩も首元も日に焼けていないようで、真っ白な雪に溶けてしまうくらいの透き通った綺麗な肌だった。二の腕は引き締まっているように見えるけれど、きっと触れたら柔らかいのだろう。マルコスが二の腕の柔らかさについて語っていたのをふと思い出す。そう、確か、胸と同じ柔らかさだと。



「燈くん、なにか用事?」
「あっ、あのな、耳かき……」
「あちゃー、誰から聞いちゃったのかな……んー、いいよ。お耳の掃除してあげる。来て」



腕を掴まれてそのまま、彼女の自室に連れ込まれる。やはり、名前ちゃんの耳掃除の評判は上々のようで、先程の口ぶりだと耳掃除をするのは何度もあったことのようだ。こうやって、同じように男を招いたのかな。部屋の小さなソファーに座るように促された俺は小さな嫉妬心を燃やしながらも、彼女に従っておとなしくしていた。ソファーの前のテーブルには紅茶が淹れられたカップが置かれ、ショートケーキが皿に乗せられている。



「燈くん飲み物なにがいい?」
「俺?なにがあるのかな」
「あ!お酒あるよ。お酒」
「……昼間から飲んだら怒られるだろ」
「でもわたしあまり飲まないから、余ってるのー。ちょっとだけだからお願い!」



冷蔵庫の中から取り出された酒は、度数の強くない甘いジュースに近いものだったので、了承することにした。たった少しの量で泥酔することはないだろうし、俺が頼みごとをするのだから、彼女の願いを聞くのは当たり前だろう。名前ちゃんは今からケーキを食べようとしていたみたいで、まだケーキには手が付けられていなかった。彼女は酒を手に戻って来ると、ケーキは二つないからごめんね、と言う。そりゃあ、俺は突然の訪問なのだから用意することは難しいはずだ。気にしなくていいから、と返すと名前ちゃんは目線を下げて、俺から顔を隠す。



「このケーキ、半分こにしよう」
「気にするなって」
「でも!ここのケーキ屋さんのショートケーキとっても美味しいの!」



顔を隠したまま、俺の隣に座った名前ちゃんはショートケーキの端っこを一口サイズの大きさくらいにフォークで取ると、俺の方に向かってそれを突き出す。その時に見えた彼女の頬はトレーニング後の上気したものとは違う赤みが広がっていた。口に近づけられたフォークとケーキに戸惑っていると、彼女の口がゆっくりと動く。消えてしまいそうなくらい小さな声で発せられたその言葉を俺は聞き逃さなかった。確かに、あーん、と言ったのである。小刻みに揺れるケーキは彼女が動揺しているのか、緊張しているのか。どちらかは分からないが、有り難いシチュエーションに俺はひとり心を躍らせていた。彼女の細い手首を捕まえると、大きく口を開けてケーキを口の中へ。



「ん、美味いな」
「……あ、燈くん、触ったでしょ」
「べ、別に何もしてないだろ……!」
「手、触った!」



震えて定まらないケーキを食べるために手首に触れただけだ。下心なんてこれっぽっちも持ち合わせていなかったのに、この酷い言われようである。手首でこれほど言われるのだったら、俺が密かに密かに期待していたラッキースケベ的なハプニングが起こったとすると、殺される勢いかもしれない。人為変態をこの狭い空間で起こされてはたまったものではない。何も言わなくなった名前ちゃんを横目に、酒を飲み干す。



「あっ、そ、そうだ!お耳の掃除するんだったね」
「……名前ちゃんが良ければ、してもらいてェなあと思って」



紅茶のカップをテーブルにゆっくり置いた彼女は、無言のまま自分の膝をポンポンと叩く。ワンピースは短めの丈だったために、太腿がよく見える。もし俺が彼女と恋人の関係だったのなら、迷うことなく飛び込むのだろうけれど、先程の反応を見ているとなんだか強制しているようで自分が悪いことをしているようにしか思えなかった。無理をさせたいわけではない。俺はその場に立ち上がると、彼女に向かって頭を下げた。自分自身の欲望に忠実になって、本能のままに行動したことを悔いる。名前ちゃんを怯えさせるようなマネをしたかったわけではないのだ。



「無理を言ってごめん……!嫌なんだよな」
「まっ、待って燈くん、あの」
「……そんな目をされちゃ頼めねェよ」
「違うの!あの、男の人にするの、はじめてだから……緊張しちゃって」
「はじめて……?」
「それに、燈くんだから……」



顔を上げれば、熟れた林檎のように顔を赤くした名前ちゃんが両手の指を絡ませながら、俺のことを見ていた。男にするのがはじめてだとか、緊張しているとか、それも気になったけれど最後の言葉の意味が一番引っ掛かる。俺だから、何かあるのだろうか。再度、ポンポンと自分の膝を叩く彼女は、どこか必死だった。俺を引き留めようとしているのではないか、そんな風に勘違いしそうなくらい。好きな女の子に引き留められる程、嬉しいことはないというのに。彼女には悪いが、なんだか興奮してきた。



「……じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」



ソファーの端ギリギリに寄った彼女の膝にそっと頭を乗せる。横になるときに世話になっているクッションや枕とは感触がまるで違う。勿論、どれも柔らかいのだが、名前ちゃんの体温や肌の感触が直に伝わってくる。弾力のある、少しむっちりとした太腿は俺の想像を遥かに超えた物を与えてくれた。向きのことは何も考えなかったが、反対の耳掃除をしてもらう時は必然的に彼女のお腹と向き合うことになる上に、手を伸ばせば触れることだってできる。悪戯をした時の名前ちゃんの反応はどうなのだろう。それに、男のロマンだと最初から豪語している、お腹から上の方へ視線を上げた時の視界は一体どのようなものだろうか。予想以上のことが待っていることには間違いないと思う。
耳の中に入り込んできた細い棒が、カリカリと擦れる。絶妙な力加減のおかげで痛みを感じることはなく、むしろ快楽をもたらすだけだった。気持ちいい、その一言に尽きる。男だけだったら、俺だけが知っている。耳掃除を彼女にしてもらったことだけでも充分自慢できることなのに、唯一の男であることも加味される。思わずうっとりとしてしまった俺は自然と瞼を下ろしていた。



「……きもち、いい?」
「す、すげえ」
「燈くんが喜んでくれて嬉しい」



歯切れの悪い彼女の問いかけは、性に関する知識を無駄に詰め込まれた頭を揺るがすようだった。男女の営み、いわゆる情事の際にぽろりと零れる言葉のようにしか聞こえない。緩まった口元に厭らしい表情を彼女は見ただろうか。必死に隠そうとしても、もう無理だった。名前ちゃんのことを求めてしまっている自分は煩悩に塗れた男である。反対の耳を掃除してもらう頃にはきっと我慢ができなくなって、耳掃除どころではなくなりそうだ。彼女は、許してくれるだろうか。許してくれるし、受け入れてくれるだろうとちょっぴり自信があるのは、燈くんだからと言った名前ちゃんのせいである。責任を心の中で彼女に押し付けていると、耳の中を蠢く物体がふと消えた。じゃあ、反対向いてね、と彼女の声が聞こえてくる。俺を狼に変身させる魔法の言葉に違いない。





Title:シングルリアリスト


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