恋のはじまりというのは突然で、今まで無意識だったはずの存在が自分の中で急に大きな存在となって、心を揺るがす。姿が見えれば、自然と目で追ってしまうし、もっと自分に振り向いてくれたらいいのにと欲深くなる。良いように見られようと、より一層お洒落に気を遣い、普段の言葉遣いも意識するようになる。装った姿でしかないのだけれど、あの頃のわたしは本当に毎日必死だった。そんな時に鬼塚さんが声を掛けてきたのである。わたしが振り向いて欲しかった男の人。憧れの彼がわたしをじっと見つめながら、口を開く。いつも通りの方が苗字さんらしいよ、そう言った。頑張っている姿もいいと思うけれど、鬼塚さんは少し照れたように笑う。 大きな勘違いに気づいたわたしはその日から、繕うことを止めた。女としての魅力を磨くことは続けるけれど、無理に自分を偽ることは放棄したのである。鬼塚さんの言葉が全てだった。無理をすることで負担が掛かるのは自分自身であり、本当の自分らしさをいつの間にか失ってしまう直前だったかもしれない。鬼塚さんに言われなかったら、わたしはどうなってしまっていたのだろうか。今は、自分自身さえ知らない自分の姿を想像するだけで恐ろしい。 「あ!苗字さん」 「鬼塚さん」 前方から歩いてきていた彼が手を挙げて、こっちに来てとばかりに手招きをする。彼が今立っている場所は確か、鬼塚さんの部屋の目の前だったような気がしてならない。まさか、なんて期待をしつつ、堅実な鬼塚さんが部屋に女を連れ込むような想像はできなかったので、その期待をすぐに振り払った。でも、ただの仲間でなく、恋人という存在だったら、どうなるのだろう。 鬼塚さんから指摘を受けたその次の日に、買い物で外に出ていたら偶然にもランニング中の彼に出会ったのだった。繕うことを止めたわたしの姿を認識した鬼塚さんは、走りを止めると方向を変えて、こちらへとやって来るなり、わたしが座っていた椅子と対面になる側に腰を下ろす。買い物で歩き疲れたわたしは小休憩でカフェに寄っていたのだけれど、まさかこんなところで彼に出会うとは思ってもいなかった。向き合う形になって、反射的に背筋が伸びる。わたしを見ると、やっぱりいつも通りの方が苗字さんらしくてオレは好きだよ、なんて笑顔で言うものだから、心臓の鼓動は速まるばかりで冷静でいられない。抑えられない気持ちはもう喉の辺りまで込み上げていて、気を抜いたら零れてしまいそうだった。目の前のテーブルに置いてあったドリンクを手に取ると、ヒートアップしている頬にくっつけてクールダウンを試みようとするけれど、ドリンクの方がわたしの熱で温まってしまう勢いである。鬼塚さんは今までの中で一番近い距離にいて、笑っている。我慢ができなくなって、玉砕覚悟で開いた口が紡ぐ言葉を聞いた彼は、最初驚いたような表情をしていた。けれども、ゆっくりゆっくりその言葉の意味を噛みしめていったのか、だんだんと耳を赤くし、頬を赤くし、視線を彷徨わせる。その時の鬼塚さんの様子は忘れられない。あの世界チャンピオンがあんな表情を見せるなんて。言葉はなかったものの、しばらくして顔を伏せたまま、手だけが伸びてきた。了承の印に握手だなんて見たことも聞いたこともなかったけれど、なんだか鬼塚さんらしいなと思わず笑うと顔を上げた彼がよろしく、と小さく零す。 つまり、何が言いたかったかというと、正真正銘わたしと彼は恋人という間柄ということである。 「どうしたんですか?」 「ちょっとオレの部屋に寄らないかなと思って。美味しいジュースをミッシェルさんに昨日貰ったんだけど、オレひとりじゃ飲みきれないから」 「ミッシェルさんから貰ったんですか?それ絶対美味しいですよね!」 「全く飲んでないから分からないけど、味の保証はできるかな」 あまりにも自然に部屋に入ったものだから、意識としては仲間に近い感じなのだろうか、なんて思った。鬼塚さんは決して恋人だからといって特別扱いをしない。それも彼らしいといえばそうなのだろうが、わたしとしてはちょっぴり寂しかったりする。他の女の子たちと対応が違うなんて一度も感じたことはない。でも、みんなに平等なのがいいところのひとつであると思っている。わたしは、鬼塚さんの傍にいたいという願いを叶えてしまったから、その次をまた期待してしまっているのだ。手を繋いだり、抱き合ったり、恋人たちがするようなスキンシップを彼がしてくれる日を待ち望んでいる。ご飯を一緒に食べたり、話をすることはあっても、そんな触れ合いはなかった。仲間という関係と何ら変わりない。 鬼塚さんの部屋は予想通りすっきりとした部屋で、物がほとんどなかった。最低限の物だけが置かれているといった印象である。ソファーに通されたわたしは、遠慮がちに端っこに座った後、白いカーテンが引かれた窓の方を見た。ジュースをご馳走してくれるだけなのに、部屋に通されたというだけで変な期待をしてしまう。でも、部屋に入れるなんて別に特別なことではないのかもしれない。 「苗字さん、これ」 「あっ、ありがとうございます……!」 差し出されたジュースの缶には果物の絵が心狭しとばかりに並んでいる。果物の側面に付着する水分は、この缶がよく冷えていることを示していた。あまりにも冷たかったために鬼塚さんから手渡されて、ひゃあ、と思わず変な声が出る。冷蔵庫の開け閉めの音はちゃんと聞こえていたので、冷却されていることは理解しており、冷たいはずだという心構えはできていたのに。即座に缶を小さなテーブルに置くと、両手で口を覆う。そのまま、視界から鬼塚さんを外すように視線を逸らした。ここで彼が笑ってくれたのなら、この場をやり過ごせるのにいつまで経っても反応がないために恥ずかしくてしょうがない。完全に鬼塚さんに対して背を向けたわたしは、懸命に部屋を出る方法を考えた。突然連絡が入ったフリをして出ようか、急用を思い出したと言って出ようか。 その時、わたしの両肩がぐいっと引っ張られた。頭の方ばかりをフル回転させていたので、身体の方には力が入っていない。そのため、体勢はいとも簡単に崩れる。もの凄い力で引っ張られたような気はするのに、全然痛みは感じなかった。そして気がついたら、鬼塚さんの膝上に乗るような形になっていて、思考回路がショートする。動揺している自分を落ち着けるために空気を口から取り込もうと、少しだけくちびるを開いた。何が起こったか、まだ状況を判断することもできずにいると、わたしの視界が突然暗くなって、口呼吸ができなくなる。少し乾燥した何かがわたしの上唇を挟み込むように触れた。ふにふにと控えめに動くそれは、まるで食べられていると錯覚させるよう。身体の力が抜けて倒れそうになるわたしの肩はがっしりとした腕に支えられて、逃げられない。もうすぐで全てが密着してしまいそうだった。緊張で息が上がったような状態になっていると、くちびるを食んでいた主がびくりと身体を震わせる。 「ご、ごめん、大丈夫……?」 この部屋にはわたしと鬼塚さんしかいないのだから、相手は彼だと分かっていた。でも普段から恋人らしい振る舞いをしない彼が、突然人が変わったように接してくるものだからすぐに対応なんてできるはずがない。申し訳なさそうな表情をする鬼塚さんに言葉を返すこともままならないわたしは、代わりに手を伸ばして彼の頬を撫でた。 「あの、可愛い声聞けて、ちょっと興奮したっていうか、なんていうか……ああああ、なに言ってんだろ、ほんとごめん!嫌いにならないでくれ」 「嫌いになんて、ならない、です。むしろ、すっごくドキドキしました……」 「名前、ちゃん」 「……もう、いつもいつも慶次さんはずるいです!」 Title:誰そ彼 |