「ロジーさ、ん、だめです」 「……どうして」 「だめなんです、わたし、お、お仕事が」 「嘘だな。今日は名前の仕事は終わったはずだろ」 「……っや、だめ、だ、だめっ、です」 焼き終わったパンの匂いが店中に漂う。膨らんで柔らかそうな形のパンの表面は焼き上がり、美味しそうな色でお客様の目を惹くような、そんな出来上がりだった。焼き立てのパンを見ながら名前は満足そうにひとりで鼻を鳴らす。今日は店じまいをした後に新作のパンを試作していたのである。メモと羽ペンを片隅に置いて、工程を幾つも考えながら試行錯誤を繰り返す姿はまさにモノを生み出す者としてあるべき姿だった。 出来上がりを堪能している名前の元にカランカラン、と高い音を鳴らしてやってきたのはこの町の開発班として働いているロジーという青年である。パンを瞳いっぱいに映した名前にはベルの音など耳に入らず、訪問者の存在に気づかなかった。開発班の仕事が予想以上に早く終わったロジーは、時計をちらりと見てこの店に足を運んだのだが、久しぶりに見た名前の姿に、ひどく心を乱される。彼女はあんなにも集中しているのだから、自分が邪魔をしてはいけない、そう思うのだが身体は自然と動いてしまうようで、ロジーの足は名前に向かって動き出す。人差し指でぷっくりと膨れた表面を押し込んで、放す。名前は弾力性を確かめるために、もう一度押し込もうと指をパンに向けた。綺麗に切り揃えられた爪は店内を明るくするライトに照らされて、ピンク色のマニキュアが光る。 その指を受け止めたのはパンではなく、急接近したロジーの手だった。ゆっくりと刺さるように食い込んだ手の平の痛みがロジーを襲ったが、それよりも彼女に触れたのが久しぶりで嬉しさと愛しさが勝ったらしい。店の端にそのまま名前を連れていったロジーは、いきなり誰かが入ってきた時にでも死角になるようにと口元を緩ませる。不埒な思いも含まれているその笑みは、名前を震わせるには充分だった。普段見せない表情をしたロジーを見たのだから。 「ぱ、パンの試作中なんです……!」 「それくらい俺も見れば分かるさ」 「……な、なら、離してください、ロジーさん」 離すまいとロジーの力が強まったのを感じた名前はこれ以上、彼に余計な刺激を与えないようにと言葉を選び始める。捕まえられた身体はどうやっても、逃げられないことを現実として知らしめているのだ。先程初めに触れられた指先を再度触るロジーは、何を考えたのかその指を自身の口元へと持っていくと、彼の閉じられたくちびるにくっつける。今日何度目か分からないが身体を震わせた名前を見て、ゆっくりと口を開けた。息を呑む音と、舌の立てる水音だけが二人に聞こえる。少し開いたくちびるの隙間から、朱に塗れたものが姿を現し、指先を絡まるように包んだ。ぬるりとした感触に指先から痺れが走ったようで動けない名前は、目を伏せたロジーの舌の動きに意識を取られてしまう。溶けだすアイスを丹念に舐めるよう様子は名前の心臓さえも掬い取ってしまうように思えた上に、ピンク色の爪が食べられてしまう錯覚にも陥っていた。ザラザラした舌が指を走る度に、変な気分になりそうで仕方なかった彼女は余裕の欠片などひとつも残っていない。 我慢出来ずに零れた吐息に、満足したように口を放したロジーは彼女との距離をぐっと詰め、壁紙をファンシーな物に張り替えたと言っていたことを思い出しながら、壁に押し付ける。もう、逃がさないと言わんばかりの強い瞳とそのパワーに圧倒された名前は、抵抗する術すら忘れてしまったようで、手足に力が入らなかった。水分が足りずに乾いたくちびると、リップが塗られて入念に手入れが施されているくちびるが合わさる。水分を分け合うようにロジーが食んだくちびるは、自分が求めた物を持っていて満たされていくようだった。まるで、馴染みのない砂漠の真ん中に放られた人間がさ迷い歩き、ようやくオアシスを見つけたようなものである。匂いはパンだったり、リップのものだと思われるチェリーのものだったりと様々だったが、角度を変えて味わい続ける。ぎゅっと目を閉じた名前は彼の蹂躙するそれにただただ引き込まれて、呑み込まれてしまうだけだった。 「……名前」 「う、ん?」 「どうしたらいい?」 「なにが……ですか」 時計の針が動く音が何度聞こえただろうか。すっかり冷めたパンは少し膨れた部分が萎んでしまっていた。くちびるを離したロジーは名前に迫る。彼の問う意図を図りかねる彼女はその本音を聞き出すためにも、声を絞り出した。ロジーの毒気にすっかりやられてしまった名前は呂律も回っておらず、商売の時には決して聞けないようなものである。 口角を上げて歯を見せたロジーは彼女の仕事着のボタンを上から幾つか外すと、肩を隠す布をずらした。さすがに危機を感じた名前はふと我に返って、肩から落ちていきそうだった布を押さえたが、それよりも早くロジーの歯が甘く刺さる。噛み付かれた場所には小さな花が咲く。丁寧に牙を引っ込める時には、傷口を癒すように温かいものが這う。 「……っ、ん」 「名前、だから俺はどうしたらいい?」 「変に、なっちゃう…」 ロジーの問いはもはや彼女の耳には届いていなかった。今までにされたことのない行為ばかりを受け続けた名前の心臓は破裂しそうなくらい、鼓動が激しい。そんな彼女の胸に手を当てたロジーは初めてそこで余裕をなくしたように、目を彷徨わせる。目の前に弱った獲物がいるのだから、自分が食べてしまう覚悟があれば良いだけなのだ。逃げも隠れも、抵抗もしない、恰好の獲物だというのにロジーはそれから動けずにいる。 店は名前が経営する小さな場所であり、パンを作るための物であれば何でも揃っていると言っても過言ではない。しかし、人間が過ごすための物はここにはないのだ。この後の行為に及びたいと脳が、身体がロジーに訴えているのだが、その先は踏み出してしまえば戻れなくなる。分かっているからこそ、ここで踏みとどまるべきなのだ。名前に尋ねているのは、ただの自問自答にすぎないのである。自分を欲しているような濡れた瞳の名前は目に毒でしかない。 「……同棲できるように、頑張るから待っていてくれ」 |