小さい頃の面倒見の良い年の離れた兄との思い出は、今でも目を瞑れば脳裏に甦るほどに明瞭に覚えている。わたしが兄と過ごした時間はたった数年のはずだったけれど、毎日が濃い時間だった。仕事の忙しい母の代わりに兄がわたしの面倒をよく見てくれる。子どもながらに大人ぶって、兄自身は我慢ばかりしていたと思う。わたしは我が儘ばかりのじゃじゃ馬のような小娘だったものだったから、手を焼いていたに違いない。 あの日、兄をいつも通り、いってらっしゃいと見送るまでは楽しい日々だった。わたしは兄から与えてもらってばかりで、何も返せないまま。家に帰ってきた兄の亡骸に返すことができたのは大粒の涙と悲痛な叫び声だけだった。どうして兄が死んだのか、それは思い出したくもない。 「アレックスー!」 「おう、名前か」 アネックス1号計画に参加した際に出会った仲間たちの中に、直感的に亡き兄の面影を感じさせる男の人がいた。廊下の向こう側で振り返って、こちらに方向転換して歩いてくるアレックスという人である。後ろ姿は本当に兄とそっくりで、知り合って暫くの内は何度もお兄ちゃんと呼んでしまった。サラサラとした長髪の彼はお兄ちゃんという言葉を聞く度に、振り返って優しく笑ってくれる。今でも後ろ姿を引き留める時は気を抜くと、お兄ちゃんという言葉が零れてしまうのだった。アレックスはそれほど気にしていない様子だったけれど、血の繋がりもない最近知り合った女からいきなりお兄ちゃんと呼ばれるのはさぞ気持ちの悪いことだろう。正面からだったり、横顔を認識した後はきちんと名前で呼ぶことができるのに。 「今日はお兄ちゃんって呼ばないのな」 「……アレックスはお兄ちゃんじゃないもん」 「最初はよくお兄ちゃんって呼んだクセによく言うぜ」 「あっ、あれは……!」 わたしとアレックスの年の差はたったひとつだ。けれども、わたしよりも随分年上と思わせるような言動ばかりで、アレックスが大人なのか、それともわたしが幼すぎるのかと悩ませられる。愚痴や文句を零しながらも面倒見の良いアレックスは、大人の余裕でも身に付けているかのようだった。わたしだったら駄々を捏ねたあげく、きっと適当に躱すか放置してしまうだろう。面倒見の良さは彼の素敵な部分として、みんなが思っているはずだ。 わたしをからかうように笑うアレックスがこちらに向かって腕を伸ばす。彼からすると背の小さいわたしの頭にちょうど手が置きやすいらしい。本人がそう言っていた。お兄ちゃんもこうやって頭を撫でてくれたし、アレックスと同じくらいの背丈だったのでそう思っていたのかもしれない。髪の毛をぐしゃぐしゃにする勢いで撫でまわしたアレックスは、わたしと視線を合わせるように前屈みになる。わたしがお兄ちゃんと呼んでしまう原因は目の前の彼にもあるのではないかと最近になって思ってきた。わたしと接する時の態度がアレックスはお兄ちゃんとそっくりでしょうがない。もう二度と会えない、大好きなお兄ちゃんが奇跡を起こして会いに来てくれたのではないかと錯覚させるよう。頭では死んだ人間が生き返ることはないことを理解しているのにも関わらず、目の前に近づいた顔を見て、わたしはいつもいつも泣きそうになるのだ。言えなかったおかえりを、言いたくなってしまう。もう、届けることができないと分かっているからこそ、アレックスを通してお兄ちゃんへ。 「名前、オレの顔が近いのは嫌なのか?いつもそんな顔してるぜ。傷つく」 アレックスの言葉で急にわたしは現実へ戻される。わたしが兄を、アレックスを通して見てしまっていることを仲間たちはよく知っている。でも、アレックスはそのおかげで彼自身を見つめてもらえないということにも繋がる。酷く汚いことをしているのは分かっているのだけれど、どうしても止められない。苦虫を噛み潰したような表情をするアレックスにどんな言葉を返せば良いのか分からない。口を開けば、きっと、兄を思い出していたのと逃げる言葉しか生まれないだろう。いい加減にしろとアレックスがそろそろ逆上してもおかしくない。むしろ、わたしに怒号を浴びせてくれた方が、目が覚めるのかもしれない。いつまでも兄がいない、この現実から目を逸らし続けるわたしに。兄が生きていたのなら、もう何歳になるのだろう。 「……名前、兄さんを忘れろなんてオレは言わない。お前がそんな顔をしたって、オレは咎めたりしない。でも、そろそろアレックスという男を見てくれてもいいんじゃねェか?今、お前と話をしているのはアレックスなんだ。名前がオレのことを兄のように思っていたとしても、オレは……」 「ごめん。わたしが悪いの。アレックスのこと、ちゃんと見なきゃって、分かっているの」 「オレは、名前のことを妹として見たことなんかねェよ」 「う、うん。分かってるよ、もちろん」 「お前、それホントの意味分かってるか?」 彼の瞳の中に閉じ込められたわたしはどんな表情をしているのだろう。アレックスはわたしの視界を横切るように姿を消すと、耳に口を寄せてきた。ゆっくりと動く口から漏れてくる息が擽ったい。いつものようにからかうつもりなのかな、と悠長に構えていたわたしだったけれど、お構いなしにアレックスは動揺させるような言葉を呟いた。 「オレは名前のこと、一人の女として見てるから」 「……えっ」 「もう、どういう意味か分かるな?」 Title:誰そ彼 |