布団に潜り込んでもう何度、夜鳴き鳥が月夜の静けさを打ち破ったのだろうか。月のもとに集まってきた様々な種類の虫たちの鳴き声も、それに合唱のように混じっていた。瞼を下ろしても眠気は僕のもとにやって来てくれない。身体は疲弊しきっているはずなのに。温泉でも舟を漕ぐように湯船に浸かっていたはずなのに。もう、何も考えることなく、明かりを消した自室の天井を見た後は深い眠りに落ちて、再びその景色を目に映す時には夜明けが待っている。こうやって眠れずにいると、その瞬間はいつまでも経っても訪れない。時間が経つのがゆっくり感じられるからだろう。布団を太腿の辺りで折るようにして身体を起こすと、冴えた目を覆い隠すように両手を添える。冷たい手は瞼の熱を奪っていくけれど、今日の出来事を思い出すと、また頬から熱が生まれて顔全体を熟れた林檎のように染めていく。耳も熱い。燃えるように熱い。







温泉から僕が出て来るのを待ちわびていたように彼女は姿を現した。上気した顔で髪がしっとりと濡れているのを見て、今日は女湯が先だとヒナタに姉さんが言っていたことを思い出す。姉さんに温泉の時間を間違えないでよ、と念押ししたのも記憶に新しい。髪を濡らした目の前の彼女はすっと小さな柔らかい手を僕の前に差し出した。この手のぬくもりを知ったのはつい最近のことである。二人で一緒に歩いているときにツンツンとつつかれた僕の手。誰のしわざなのか分かっていたので、隣を歩いていた彼女を見た。朝日の方向に開いて朝露を零す朝顔のような笑顔の彼女が、タクミさん手を繋ぎたいです、なんて言うものだから、反射的に顔を背けたけれど彼女の小さな手は僕の手を逃がしてはくれない。捕まえられた手に対して、タクミさんは指が細くて白くて羨ましいなんて言っていた。先日はじめて触れた手がまた僕を誘っているわけである。辺りに知っている顔がないか確かめた後、おずおずと手を伸ばすと彼女が笑って手を引っ張った。導かれるがままに連れて行かれたのは大きな通りから少し外れた場所に建っている空き家で、彼女は躊躇いもせずにその中に引き入れて扉を静かに閉める。わけも分からずについて来た僕が傍にあった木箱の上に腰掛けると、彼女はその隣に静かに腰を下ろした。木の軋む音が耳に届いてから、どうしてこのような場所に連れて来たのか理由を尋ねようと口を開く。そのつもりだった。僕の口は声を発するために開くことはなく、代わりに何かやわらかいものが包むようにくっついていて。手よりもずっとずっとやわらかいそれの正体を僕の頭で理解するまでには相当な時間を要した。時が止まったようだという比喩がぴったりだと思う。タクミさん、あのね、わたし欲張りなの。彼女の声は先程の木の軋みの音よりも僕の耳の中を刺すように飛び込んできた。手を繋いだだけじゃなくて、その、くちづけもしたくて。だんだんと語尾に近づくにつれて消えていったその言葉を残すと、彼女はカラン、コロン、とまるで機嫌が良いと言っているような下駄の音を鳴らしながら背中だけを見せて消えていった。僕はその後ろ姿を目だけで追う。開きっぱなしの扉の向こう、彼女が見えなくなるまで。







そうして、冒頭に戻る。目頭が熱い。彼女にこんな顔を見られなくて本当に良かった。男の泣き顔なんて晒すわけにはいかない。ましてや、恋人の前で。今日、彼女と顔を合わせてから言葉を交わすことは一度もなかったけれど、胸の辺りがきゅう、と鳴る。僕は彼女の言動にこんなにも心を揺さぶられているのだ。言葉に出来ない、今の気持ちの沈め方なんて知らない。だから、僕はこうやってこの想いを抱えながら夜明けを迎えるのだろう。今まで経験したことのない朝の迎え方に間違いなかった。
身体を倒して、また布団を被る。今度は頭の上からつま先まですっぽりと覆って、あたかも誰も寝ていないように見えるように。もう、夜啼き鳥も虫たちも寝てしまったのだろうか。とても静かな夜だ。はじめてのくちづけを経験した僕が見る朝日はきっと今までのどんな景色よりも美しく、眩しいのだろう。布団の中でもぞもぞと動きながら、僕は恋人と会った時、どんな顔をすればいいのだろうかなんてぼんやりと考える。どんな対応をすればいいのだろうか。少し考えて、答えを見つける自信を持てずにすぐ止めてしまった。
それに、僕はもう寝ること自体を諦めた。どんなに眠れなくとも、時間が経てば朝はやって来るのだから。



Image song:はじめてのチュウ/あんしんパパ


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