「真琴くん」 名前を呼ばれてそちらを向いたのに彼女は目を逸らした。呼んでおいてその態度を取るというところには慣れてきたところ。サラサラした砂の熱さを感じながら踏みしめると、裸足に気持ちの良い感触が返ってくる。強い陽射しを浴びる海は、宝石のように煌めいていて、砂浜に寄せた波を手で掬えば、ポロポロと小さなジェムストーンが指の隙間をすり抜けて落ちていくようだった。波を見ながら、ぼんやりと考える。彼女が引いてばかりだから、俺が押すばかりの姿勢ならばバランスが取れるのかもしれない。といっても、俺が実行に移せるかどうかは別なのだけれど。 「名前、俺の体なんて見慣れたでしょ?」 「逞しくて、でも、あの、目のやりどころに困るっていうか」 「そっか。名前はまだ俺のこと見てくれないのかな」 違うの、と少し声を荒げた彼女は漸く目を合わせてくれた。しょんぼりといた様子を思いっきり見せたのはちょっとした策略で、まんまと引っ掛かってくれた彼女には悪いことをしたかな。俺と彼女は随分と背の高さが違う。見下ろした先で、慌てたような表情を浮かべている彼女はつま先立ちになっている。少しでも近くで主張したいのかな、なんて。そのせいで無意識だろうか、上目遣いになっている。大人しく隠していた牙を剥いてしまいそうだから、余計なスイッチを入れようとするのはやめてほしい。こんなに刺激されると思ってはなかった。 「ねえ、俺の家寄っていく?」 「えっ、突然……お邪魔しても良いの?」 「もちろん」 海はまだ怖い。どこか恐怖心が潜んでいて、ある程度を過ぎるとその感情が湧いて出てきてしまう。彼女にはこの話をしているため、無理に海に入る必要はないよ、と優しく言ってくれた。いつかは克服しなくてはならない壁だけれど、こうやって優しくされるといつまで経っても前に進めないのはよく分かっている。周りで支えてくれる人へ甘えるだけでは許されないというのに。 彼女は水着の紐を両手で弄りながら、チラチラとこちらの様子を伺っている。海に遊びに来た俺たちは結局、海に入ることはなかったけれど、一応お互いに水着姿になっていた。水飛沫を浴びたり、水を少し掛け合った程度なので、そこまで濡れてはいない。充分に濡れている膝下は、風が吹くたびにスースーとした。どのあたりが水のせいで色が変わっているか確認したかった俺は、ふと視線を落とす。でも、それがいけなかった。胸元で光るネックレスが目に入った後、一気に空を見上げる。首が痛い。これ以上視線を落としてはいけないと直感が働いたのだ。 「水着は」 「部屋で着替えたらいいよ」 白い水着の彼女は躊躇いの表情を見せた。俺は健全な意味で言ったのに、どうも勘違いをしているようだった。挙動不審な動きをするので、こちらが持ち掛けた提案がよくなかったかなと頭を悩ませる。深い意味で言ったつもりはなかったのに。 男女の仲の話になると、彼女は過剰な反応を見せる。俺以上だった。けれど、彼女がそんな風に考えているのなら、俺は牙を剥いても良い。噛みつくのは簡単。その気の彼女を尊重するということだ。いくら優しそうで真面目と彼女に普段から言われ続けていたって、それを貫き続けているわけではない。牙は持っているのだ。せっかく、さっきは隠し通したのに。そして、毎回のお決まりのパターンだけれど、獲物に抵抗されることはほとんどなく、美味しく狩られてしまうのだ。 彼女に見えたかどうかは分からないけれど、言葉を発する時にキラリと覗かせた牙は噛みつく準備万端だった。もう、その熟れた赤いくちびるに噛みついてしまえばいい、と悪魔の囁きが聞こえてくる。 「名前、期待してた?」 「そんな……」 「こんな俺でもいいの?」 「……好きだから、いいの」 「……じゃあ、早く帰ろっか」 「うん」 海から俺の家まではそれほど距離はない。簡単に羽織ることのできるものを持っておいて、と彼女に言っておいて良かったと心底思う。短い距離とはいえ、さすがに水着姿で歩かせることはできない。羽織るものを用意しておいてと言ったけれど、俺が二枚用意しておけば、また美味しい思いができたかも、なんて。ブンブンと首を振ると、隣を歩いていた彼女が不思議そうに俺を見た。 部屋に入るなり、彼女は俺をベッドに座るように促し、その上にちょこんと座った。招いているのは俺の方のはずだから、変な気持ち。自ら食べ物になる気なのだろうか。部屋の中に危険な香りが漂う。外出していたため、閉めていたカーテンもそのまま。電気だって点いていない。 「名前!?」 「真琴くん」 「最近なかった、から。真琴くん男の子だし、こういうの」 上着をゆっくりと目の前で脱ぐ彼女は、ひどく艶めかしく、それでいて誘惑的だった。上着を脱ぐ動作が手慣れているように見えて、自分の手で顔を覆う。扇情的、そんな言葉がぴったりだった。普段から優位に立っているつもりだったのに、こんな時にだけ逆転されるなんて。俺の手をそっと取った彼女はその手を自分の水着の紐へと導く。ちょうちょ結びされたそれを引っ張ってしまえばスタートの合図。紐の先端を軽く摘まむと彼女は頬をほんのり染めて笑った。 彼女のくちびるを塞ぐ。ここで形勢逆転、といったところ。もう完全に牙を彼女に向けてしまったわけだ。くちびるを啄むようにしていると、彼女の舌が俺のくちびるを遠慮がちに舐めた。彼女のレベルが上がったような気がして、脇に両手を滑らせて抱き上げると組み敷くようにベッドに押し倒す。 「今日はどうしてそんなに誘うの?」 「真琴くんを、近くに感じたいから、だよ」 やられた。いつも大人しい彼女からそんな言葉が出るとは思わなかった。胸のあたりにくちびるを寄せて、ゆっくりと息を吐く。ぴくりと反応する彼女はもう捕らわれの獲物。健康的に焼けている肌を食す。 「ま、ことく、ん……っ!」 「ん」 「……だめ」 「名前が先に仕掛けてきたのが悪いんだよ?俺をその気にさせるから」 胸元からくちびるを離して、彼女に微笑む。俺は今きっと悪い顔しかしていないと思う。水泳をしているときの方がよっぽど良い顔だろう。薄暗い密室に男女が二人っきり。そして、お付き合いをしている。そんな状況が出来上がっているのに何もしないはずがない。俺は一度ストッパーをかけたのにも関わらず、彼女がそれを壊したのだ。 「シャチ、だ」 「……え?」 「渚くんが真琴くんのこと、シャチって」 シャチは狩りの際にはクジラを襲うような奴だ。本当にとんでもない。身体の大きさなんて関係なく、襲いかかる。見た目からは想像できないほどの獰猛さだ。ああ、きっと、俺も同じようにとんでもない奴なのだろう。 |