大柴喜一という男は大層な金持ちである。毎日、高級車で送り迎えをしてもらっていて、彼が持っている物はブランド物だと聞いたことがある。家で食べる食材だって、庶民からは手の届かないようなものばかりらしい。勉強に関してはからっきしだけれど、大柄で体格に恵まれた彼はサッカーをやっている。コートの中でいつも注目を浴びる選手としてありたいようだ。ただし、スタミナはあまり長く保たないらしい。大柴喜一と同じサッカー部に所属し、更に学年も一緒で、わたしの隣に座っている君下敦が教室で言っていたのを聞いた。彼に対する第一印象はこのくらいだっただろうか。クラスも一緒になったことのない、大柴喜一に関する情報だ。
わたしは目の前に聳え立つ豪邸の前で足を震わせていた。まるで上級貴族の住むお屋敷を訪問するかのようだった。第一印象の話をしたけれど、実はその後いろいろあり、わたしは喜一くんとお付き合いしている。付き合った当初、君下くんから絶望したような瞳を向けられ、趣味が悪いとまで言われたけれど、別にわたしは第一印象だけで決めたわけではない。喜一くんは勉強が苦手で、サッカーをやっているお金持ちの男の子だ。多少気が利かないところはあるけれど、それでもわたしのことを喜一くんなりに大切にしてくれているように思える。わたしは意を決して、インターホンを押す。



「苗字です」
「は、名前?」
「喜一くん?」
「俺の家だからな」
「お見舞いに来ました」



馬鹿は風邪をひかないと君下くんが隣で呟いていたが、それを聞いていた喜一くんはじゃあ俺は天才だから風邪をひくこともあるだろうと言っていた。そのまま、言い合いになったのは記憶に新しい。そうして、この暑い夏に彼が豪語していた通り、風邪をひいた。教室を出る前に君下くんが馬鹿は風邪をひかないから仮病だろ、とわたしに吐き捨てたのは数十分前である。
インターホン越しでも、喜一くんの声がいつもの調子と違うのがよくわかる。どこにいてもすぐわかるくらい、ハキハキしていて大きな彼の声が、ガラガラで喉から声を絞り出すようなものだった。仮病で演技をしているとするなら、彼は役者にでもなれるのではないかと思うくらい。とにかく、喜一くんは本当に風邪をひいたらしい。君下くんの肩を持つわけではないけれど、今朝、喜一くんからメールで風邪ひいたとの五文字が送られてきたときは、実は目を疑った。え、と口から驚愕の声が出た。目を擦って、もう一度メール画面を見たけれど、その五文字が変わることはない。わたしはそんなメールを思い出しつつ、喜一くんが入って来いと言ったので、お邪魔しますと恐る恐る扉を開けた。
喜一くんのお家を見るのは外観だけだったら何度もあるけれど、内観を見たのは初めてだった。扉の前に立ってすぐに緊張感に襲われたが、こうやってお家にあげてもらってもその緊張は解けることなく、ますますわたしを強張らせる。自分の家と全く違う。まず、リビングが段違いに広い。テレビが大きい。台所も広い。冷蔵庫が大きい。リビングから見える範囲でも、普通の人とは住んでいる場所が全く違うのがわかって、鞄とは逆の手で握っているビニール袋を落としそうになった。こんな場所に庶民のわたしが踏み込んでいいものではないような気がする。警備員さんがいたら、すぐにつまみ出されてしまいそうだ。お姉さんとは面識があるけれど、喜一くんの親御さんと顔を合わせられる自信がない。リビングで足を止めてしまっていると、彼が苦しそうに叫んでいるのが聞こえる。まずは、とりあえず、喜一くんのお部屋に行こう。



「お邪魔、します」
「……学校帰りか」
「うん、直接来ました」



鞄を入り口近くの隅に置くと、ベッドに横になっている喜一くんのそばに腰を下ろした。スカートがふわりと、絨毯の上に広がる。靴下を履いていて、立っている時はわからなかったけれど、座ってみれば絨毯の肌触りが気持ちいい。絶対、お高い絨毯だ。
ベッドも大きいけれど、心なしか喜一くんの身体には窮屈そうに見える。ベッドが小さく見えるとは、どれだけこの男は大きいのだろう。わたしは、近くのスーパーで大急ぎで詰め込んだお見舞い用のものを取り出す。喜一くんは、もっと良いものを使っていたり、食べているのだろうけれど、わたしのお財布だとこのくらいが限度である。ヨーグルトは奮発して少しお高めの物を買った。わたしの家だと絶対に出てこないような種類のヨーグルト。でも、彼の口に合うかどうかはさすがにわからない。熱冷ましのシートが入った箱を取り出したくらいで、喜一くんがわたしの腕を掴む。大きな手はわたしの腕をいとも簡単に折ってしまえそうだった。そのおかげで、最初、彼に触られた時は本当に怖くて、思わず逃げ出してしまったくらい。お付き合いするようになって、ようやく、慣れてきたところだ。それでも、心臓が大きく跳ねるのは変わらない。



「名前」
「は、はい」
「どうしてそんな敬語なんだ」
「緊張して……」
「ふん」



わたしの手から一枚の熱冷ましシートがはらり、と宙を舞う。シートは落ちたけれど、反対にわたしの身体は気持ちの良い絨毯からどんどん離れていく。いつの間にか起き上がっていた喜一くんが両手をわたしの脇の下に差し込んでいたのだ。病人のくせにどこにこんなパワーを隠し持っているのだろうか。ちょっと疑いの目で彼の顔を見たけれど、確かに頬や首が赤くなっているので、風邪なのは間違いないらしい。枕元に体温計が置いてあるのも見たし。そこで、ふと、わたしは思い出した。喜一くんのお家はお金持ちだ。そして、彼の親御さんはお医者さん。つまり、わたしのような素人の看病なんて一切必要がない。適切な処置を既に施されている上に、もともと身体が丈夫そうな喜一くんだからこそ、こんなにもう回復をしているのかもしれない。くしゃり、とビニール袋が音を立てる。



「喜一くん、ごめんね」
「どういうことだ」
「わたしのお見舞いなんて必要なかったね。だって、もう喜一くんこんなに元気なんだもん」
「まあな。俺は強いから」
「あとはちゃんと寝たら治るよ。だからわたし、邪魔しないように帰るね。下ろして」
「……それはいやだ」



いやだ、と言った喜一くんはまるで駄々をこねるような子どもだった。むっとして、頬を膨らませた彼はベッドの上にわたしを下ろす。下ろしてとは言ったけれど、ベッドの上に下ろして欲しいなんてお願いしていない。喜一くんはそのまま、わたしの腰をぐっと掴む。彼の足側にぐいぐいと引き摺られたかと思えば、わたしにのしかかるような形で、喜一くんは顔を覗かせる。彼の両足に挟まれた身体は動かせないし、喜一くんがスカートを踏んづけているから絶対に逃げられない。スカートが皺になることに気が回らないのは、喜一くんらしい。次に目を合わせた彼は、わたしの前では初めて見せるような表情をしていた。サッカーをやっている時の表情に近いのかもしれないけれど、それとは何かが違うように思えた。サッカーボールを自分の物にしようと狙っていく喜一くんのよう、でも、ここにボールはもちろんない。



「お前は俺の見舞いに来たんだろう?」
「うん。でも、必要なかったなあって」
「最後まで俺の看病しろ」



もう看病することなんてないのに。冷静に考えていたけれど、よくよく考えれば、今わたしは喜一くんに押し倒されているではないか。しかも、ベッドの上で。思春期の男女がベッドの上で二人きりだなんて、と状況を理解したらだんだんと危機感が溢れ出してくる。喜一くんの顔がものすごく近いし、彼の大きな手はわたしの二の腕をいつの間にか掴んでいる。まだ、キスもしたことのないわたしたちは段階を間違っている。二の腕を揉む手つきに、手足の指が無意識にピクピクと動く。一緒に腰も動かしていたようで、それを見つけたらしい喜一くんはゴクリ、と生唾を飲み込む。少し赤みを帯びた首の喉仏が大きく蠢く。目撃してしまったわたしも喜一くんの真似をするかのように、思わず喉を鳴らした。
夏の熱さはクーラーがかき消していたけれど、身体の熱まで取り除いてくれるはずもない。喜一くんと目を合わせられなくなったわたしは、彼の腕やパジャマ越しの胸板に目を移す。無駄なことだと分かっていても、そうするしかない。一瞬だけ見た喜一くんの瞳はギラギラ揺れていて、臨戦態勢と言わんばかりだ。夏服から覗く二の腕を堪能した彼は次に、その手をわたしの頬へと伸ばしてきた。顔に向かって手が向かってくるのが分かったわたしは、咄嗟に瞳をぎゅっと閉じる。両頬を包まれたのが感触でわかる。風邪をひいているのだから、彼女にうつさないようにと考えてすらなさそうな喜一くんが吐いた息が、わたしの鼻や口にかかる。熱い吐息は熱によるものなのか、それともまた別の感情から引き起こされているものなのか、見当もつかない。それからしばらく何も起こらないので、ゆっくりと目を開けてみれば、喜一くんは目を瞑っていた。息を吸ったり吐いたりを繰り返している。よく分からないことを突拍子もなく始める喜一くんは通常運転といったところだ。



「喜一くん……?」
「俺は彼氏だからな。名前を守らなくてはならない。そう、俺に課せられた使命だ」
「え……う、うん、ありがとう」
「ここで強引に迫るのは男だが、彼氏としては失格だろう」
「でも、喜一くん」
「……名前、それでも、俺はお前とキスがしたい」



くちびるをなぞる喜一くんの指先は微かに震えていた。いつも大胆なくせに、こういうところで緊張するなんて笑ってしまう。キスしただけで、絶対に風邪がうつるわけでもないのに、わたしとキスをしたいと言ってくれたのだ。断れるわけもない。彼は風邪をひいていなければ、わたしに何も尋ねることなく、くちびるを奪っていただろう。多少強引なところもすきだから、わたしとしては構わないのだけれど。あの喜一くんがわたしに尋ねてきたのだ。後ろ髪を引かれる思いがどこかにあるのだろう。そんな風に少しだけでもわたしを気遣ってくれたのが嬉しくて、喜一くんのくちびるに手を伸ばす。高級なリップクリームは窓際に見えたけれど、きっと彼は一度も使ったことがないのだろう。くちびるは乾燥していた。自分とは違う感触に、指を滑らせる。あのリップクリーム、わたしが使ってあげるのに。そうすれば、喜一くんともいずれ共有できるようになるのだ。パッケージに書かれている、あのうるおいを。



「喜一くん、キスしよう」
「俺に任せておくんだな」



結局、わたしの買ってきたヨーグルトや熱冷ましシートは全く出番がなかった。ヨーグルトは帰って、冷蔵庫に入れておこう。いつかの楽しみに取っておくことにする。今は、喜一くんとの時間を存分に味わうことが何よりも優先事項だ。お見舞いに来たというのに、むしろわたしが良い時間をもらってしまったみたいで、なんだか申し訳なかったけれど、彼が喜んでくれるならそれでいい。沈んでくる彼の大きな身体に押しつぶされそうになりながらも、わたしのくちびるは喜一くんによって啄まれる。くちびる同士の熱を分け合っては、離れ、また熱を共有する。何度も繰り返すと、喜一くんが舌を入れたいようで、ぐいぐいと迫ってくるものだから、さすがにそれは拒否した。風邪が治ってからね、と。それに、心の準備ができていないから。風邪が治ってないからという口実をつけて、回避することはできて良かった。すると、病人の喜一くんは大人しく引き下がり、ベッドに沈み込む。わたしは大きな身体から逃げ出すように、ベッドから這いずり出てくると、ぐちゃぐちゃになってしまった制服を正して、毛布に包まった彼を見る。毛布の合間から顔を出して弱ったような瞳を向けられると、帰りづらい。



「ちゃんと休まないと、サッカーもできないからね」



わたしの手は喜一くんによって再度掴まれていた。これは無言の催促だ。もう一回だけして欲しい、そんなお願いを喜一くんがしているようだった。風邪をひいているだけだというのに、喜一くんがいつもと違う面ばかり見せるものだから、わたしは掻き乱されてしまってしょうがない。ぐいっと引っ張られると、そのまま腰を抱き寄せられて、またキスをする。初めてのキスを一体何度するつもりなのだろうか。でも、わたしは喜一くんとなら、何度キスをしたっていいかな。



「名前、元気になったら舌入れてやるからな」
「はいはい。ちゃんと休んでね」



Title:誰そ彼


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