店の入り口から見える空がすっかり暗くなり、人通りも減った頃。君下はカウンターの前でサッカーの雑誌を読みながら、足元に置いてある鞄に目をやる。鞄から見えるプリントの束は、明日からの三連休で出された大量の課題であった。もちろん、三日間みっちりと部活は入っている。空いた時間を上手く活用しなければ、課題は絶対に終わらない。同学年の中で課題に取り組むスピードは早いとはいえ、君下であってもそれなりに時間がかかるというものだ。店じまいに取り掛かろうと腰を上げた彼に声がかかったのは、まさにその瞬間である。



「君下くん」
「もう店じまいだ」
「またそんな冷たいこと言わないでよ。お姉さんちょっと悲しいなー。ほら、わたしが今日作ったお菓子あげるから」
「……チッ、店に入れ」
「君下くんは優しい子。うんうん」



様々な種類の菓子が詰め込まれた箱を抱えて店に駆け込んできたのは、近くに住んでいる女だった。君下よりもいくつか年上の彼女は現在大学に通っている。菓子作りが趣味であるため、時折こうやって君下に差し入れとして持ってくるのである。そんな女が店を訪れる時間帯は、決まって君下が店を閉める時間だった。ただ最近になって、君下は時計を頻繁に見ることをやめており、閉店時間を過ぎてから、ようやく片付けに入るのである。そのことを彼女は知るはずもないが、いつやって来ても結局店に入れてくれる君下のことを優しい人だと言う。
シャッターを閉めた君下は、カウンターの上に広げていた雑誌を片付けると、鞄から課題のプリントを取り出し、奥底に埋もれているシャーペンと消しゴムをプリントの隣に置く。それから、カウンター近くに立て掛けてあるパイプ椅子を開くと女に差し出した。ぶっきらぼうに差し出された椅子を受け取った女は、君下の課題に邪魔にならないように箱を開くと、一緒に入れてあった一枚の皿とフォークを置く。



「何がいいかな」
「なんでもいい」
「うーん」
「……それで。用はなんだ」
「よくぞ聞いてくれました!君下くん。あのね、今度弟が誕生日なの。弟もサッカーやっててね。同じサッカーしてる君下くんだったら何が欲しいかなって聞きたくて」



君下は数字と文章の並びを目で追いかけながら、シャーペンを走らせる。自分の欲しい物とは何だろうかと。弟ならば、別にサッカーにこだわらなくても良いのではないか。問題を目にしてはいたが、頭の中は彼女に問われたことでいっぱいであった。
そんな君下を余所に、女は皿に菓子を乗せていく。あまり甘く作らなかったのは、彼を思ってのことであった。甘い、苦い、どちらがいいかと君下に彼女は聞いたことはなかったが、なんとなく彼は甘いのが苦手そうだと勝手に考えている。それで、甘さ控えめの菓子が出来上がっているのであった。これまでに何度か君下に持ってきているものの、彼は一向に文句をつけない。彼女はそんな君下が黙々と食べる姿を見ることが唯一の楽しみだった。美味しいなどの感想はいらない。ただ、食べてくれるだけで良かったのである。



「これでいいだろ」



皿の上から摘まんだドーナツを女の目の前に持ってきた君下は、そのまま自身の口へと放り込む。サッカーとはまるで関係のない答えに一瞬呆けた彼女だったが、少なくとも分かったことがあって、自然と頬が緩む。君下は自分の菓子を気に入ってくれているらしいということだった。ニヤニヤした顔つきで君下を見ていると、彼はこっちを見るなとばかりに睨む。ふふ、と女から零れた笑いは静かな店の中で響いた。



「君下くん」
「あ?」
「ごめん、嘘ついた」
「は?お前……!」
「純粋に君下くんが欲しいものが聞きたかっただけ。だって、普通に聞いても絶対に教えてくれないと思ったから」



ドーナツが喉に詰まったのか、それとも動揺したのか彼女には分からなかったが、君下が咽る姿を目にして、急いで自分の鞄から小さな水筒を取り出すと、彼に手渡した。蓋を開けた状態の水筒からは、中身が揺れたせいで水音が聞こえる。水筒を手にした君下は、一気に流し込むようにお茶を飲み込む。ごくり、ごくり、と動く喉仏を見た女は視線を少し逸らした。なんだか、いけないものでも見ているような気分になったからである。ふう、と息を吐き出した君下は湿ったくちびるを手で拭う。
ハンカチも一緒に渡せばよかったかな、と思った女がもう一度君下の方を見れば、水筒を持ったまま彼が固まっているのが目に入った。首を傾げながら、君下の持っている水筒を半ば強引に奪い取ると、我に返ったように彼はハッとして、傍に置いていたシャーペンを手に取る。プリントと再度対峙した彼は同時に、空いている手でしきりに自分のくちびるを触っていた。
茶の味が口に合わなかったのかもしれない、と思った女は君下のために盛った菓子の中から小さ目のクッキーを指で摘まむと口の中に放り込んだ。せっかくの菓子だから、ジュースの方が良かったのかも、と咀嚼しながら漠然と思う。でも、ちょっと変な君下が見られて、心の中で笑っていたのは内緒の話である。
一方の君下は、はっきり言って問題が手につく状態ではなかった。男同士で同じものに口を付けることはサッカー部の内でもよくあることである。しかし、今は男同士ではないのだ。相手は幾つも年上の女。同性ではなく、異性なのだ。全く気にしていない女の様子を気づかれないようにチラチラと伺う。自分だけがどうしてこんなにも気にしているのか。自分に腹が立つようだった。指折り数えるくらいにしか年の差はないというのにも関わらず、クラスの女とは雰囲気が違う。たった何年か先に生まれただけでこんなにも余裕でいられるというのか。シャーペンを走らせて書く数式は無駄なもので、書いては消し、書いては消すことを繰り返す。公式に当てはめれば、すぐに解けてしまう問題だというのにも関わらず、君下は先に進めずにいた。



「じゃあ、これ置いて帰るね。課題の邪魔をしちゃいけないし。わたしもレポートしなきゃいけないなあ」
「……おい、名前」
「んー?」
「いや、なんもねえ」
「おやすみ、君下くん」



名前は荷物を纏めると、定位置にパイプ椅子を立て掛ける。本当は片付ける場所はここではないのだが、君下がここでいいと言ったあの日からずっと彼女専用のものになっていた。君下は名前を呼んだものの、その後の言葉を続けることができずに、暗闇へと消えていく彼女の姿を目で追うだけである。残された皿に詰まれた菓子は、君下だけでは食べきれない程の量が残っていた。普段は適量が残っているというのに。
タワケが、と小さく呟いた君下は菓子を目の前にして、カウンターに突っ伏す。三連休後に提出するプリントがグシャリ、と音を立てたがそんなことはお構いなしだった。



Title:ジャベリン

ALICE+