わたしの隣の席には長髪をいつも結んでいて、女の子のように美容健康に気を遣っているように見える男の子がいる。隣の席になる前まではあまり喋る機会がなかったから、なんとなく敬遠していたのだけれど、いざ喋ってみれば、気さくな男の子だった。ただ、彼は女の子の扱いに慣れているようで、ちょっとしたことでいちいちわたしは心臓を掴まれてしまっている。そんな毎日が続いただけで人という生き物は簡単に恋に落ちてしまうもので、わたしもその一人だった。
授業中にふと横を向けば、彼の髪の表面が日光に照らされてキラキラと煌めいている。キューティクルが剥がれないようにと手入れをしているわたしの髪の毛よりも、質が随分違うように思えた。わたしの視線を感じたのか、彼、速瀬くんと目が合う。横顔に見とれていた自分が恥ずかしくて、思わず身体を震わせると、腕が机に当たったのか、その衝撃で消しゴムがわたしも速瀬くんも手の届かない場所へと転がっていった。あと何分かで授業が終わるのだから、わざわざ席を立って拾いに行かなくてもいいや。なんて自己完結していると、わたしの肩がちょんちょんとつつかれる。そういえば、消しゴムが落ちたときの間抜けな顔は隣の速瀬くんにばっちりと見られてしまっただろうか。羞恥心に苛まれながら、指でつついてきた張本人に目を向ける。速瀬くんは、手の平をこちらに向けて差し出していた。お姫様お手をどうぞ、と言われているような錯覚に陥ったわたしはしばらく固まっていたけれど、それを不思議に思ったようで首を傾げた速瀬くんがわたしの机に何かを置く。彼の手の中から姿を現したのは、小さな消しゴムだった。速瀬くんの顔を見ると、彼は口パクで使えよと言う。消しゴムを落としたわたしのために、速瀬くんが貸してくれたのだ。彼の机の上には、まだあまり使われていないような消しゴムが置いてある。わたしのせいで新品を出すことになったのかと思うと、申し訳なくてしょうがない。でも、速瀬くんがわたしのことを考えたくれたのだと思うと、体温が一気に上がったように身体が熱くなる。横顔も格好良いし、気が利く。そんな男の子に優しくされて、嬉しくないわけがないのだ。
数日前の放課後、部活が急に休みになったわたしは教室に残って課題に取り組んでいた。家に帰ると、どうも集中力が散漫になってしまって、プリントが進まない。それを見越したわたしは学校でやりあげようと考えたのである。帰宅部の男女も、さっきまで教室の中央で楽しそうに喋っていたが、話のキリがついたようで全員出て行った。授業中も、昼休みも、常に人の話し声が響き渡る教室が静かなのはちょっぴり変な感じで落ち着かない。けれども、学校という環境がわたしに集中力を与えてくれているようだった。部屋の机で勉強するよりも遥かに効率がいい。部活終わった後も教室が使えたらいいのに、なんて考えていると、急に閉め切った空間に誰かが飛び込んできた。豪快に開けられた扉の音にびっくりして、教室の出入り口を見れば、ユニフォームを着た速瀬くんが突っ立っているではないか。何も言わずにわたしの方へやって来る彼に目を離せないでいると、速瀬くんは自分の机の中に手を突っ込んで何かを探し始めた。完全に手が止まったわたしは、隣の席の速瀬くんをじっと見る。数秒後に、彼の手に握られていたのは小さなマスコットがついた鍵だった。一体、何の鍵なのかは見当もつかないけれど、速瀬くんの問題はこれで解決したらしい。満足したような笑みをわたしに向けた速瀬くんは、そのままプリントを覗き込んでは偉いなと呟く。課題をやるのは学生であるわたしたちは当たり前のことなのだから、偉いと評されることではない。でも、速瀬くんにそう言われたのなら、ただの言葉なのに舞い上がってしまう。不意に彼の手がわたしの顔目がけて動くものだから、咄嗟に目を瞑ってしまったけれど、男の子のがっしりとした手の感触を頭で感じた。目を開いてすぐに、頭を撫でられていることに気がつく。速瀬くんの手は大きいけれど、指は繊細で美しいのだ。いつかの美術の時間で鉛筆を持っている速瀬くんの手は、輝いて見えたものである。長くて、細いその指が描く曲線がひどく美しいものだったことを思い出した。ひとしきりわたしの頭を撫でた速瀬くんは、頑張れよと、最後に肩を触る。男子同士で戯れあうときに肩を叩いているところを見たことがあるのだけれども、今みたいにこんなに優しく、柔らかい力で叩いていたようには見えなかった。ニコニコしていたかと思えば、至近距離で真面目な表情を見せる速瀬くんは、わたしを落とす遊びでもしているのだろうか。落ちついた声の頑張れよ、が耳に残って消えない。
速瀬くんは女の子に人気がある。だから、こんな風に接しているのはわたしだけではないのかもしれない。むしろ、その可能性が高いと思っている。恋心を奪われたからこそ、疑ってしまいたくなる。速瀬くんのことを本当に好きになってしまったのなら、傷つくのはわたしかもしれないのだ。必死に自分でブレーキを掛けようとして、心の中で嫌いの言葉を繰り返す。優しくされているから、目をかけてくれるから、好きになってしまいそうなだけではないのかな。速瀬くんの中身をちゃんと知らないくせに好きになってしまいそうなんじゃないの。嫌い、嫌い、速瀬くんはみんなに優しいのだから、わたしが特別な感情を抱いたとしても無駄。傷つくなら、最初から好きにはならない。それが賢い女だ。
ただ、わたしは賢い女ではないらしい。結局、何を考えたとしても速瀬くんのことを諦めきれなくて、一週間の中で幾度も起こる速瀬くんの行動に振り回されている。嫌いと言って、突き放すのが怖いのだ。寂しくてしょうがないのだろう。わたしは馬鹿な女だ。速瀬くんじゃないとダメなんだって、いつの間にか自分で結論を出しているのだから。







「苗字さん」
「速瀬くん、おはよう」
「ん、おはよ」



いつもと変わらない挨拶を交わして、席についたわたしの机に速瀬くんが自分の机をぐっとくっつけてくる。突然の行動に心臓が跳ね上がって、煩く鼓動を立てる。そういう突発的な彼の行動にはいつまで経っても慣れない。それに、彼は毎回同じことを仕掛けてくることがないために、行動を予想するのは不可能に近いのだ。頭を撫でられたのだって、肩を触られたのだって、荷物を持ってくれたのだって、腕を握られたのだって、消しゴムを貸してくれたのだって。全てが一回ずつしかないのだ。耳元で囁かれたのだって、そして、今みたいに机を使って距離を詰めてきたのだって。椅子もくっついてしまうのではないかと思うくらいには近い。クラスの誰かには絶対に見られているだろう。でも、速瀬くんは何をするにしても躊躇いというものがない。



「は……は、やせ、く」
「名前ちゃん」



はじめて名前を呼ばれた。速瀬くんが女の子に何回そういうことをしてきたかなんて、わたしは知らない。でも、速瀬くんから、はじめてをたくさん貰っているのは紛れもない事実だった。彼のくちびるから、わたしの名前が紡がれたと思うと、もう目を合わせることすらできない。握り締めた拳を膝上に置いたわたしは、自分の上履きと速瀬くんの上履きを交互に見るだけだった。



「名前ちゃん、顔も耳も真っ赤」
「だっ、だって」
「……そういうとこ、可愛いからさ。全部ちょーだい。な?」



わたしの全部のはじめてを貰ってくれるのは速瀬くんがいいと心からそう思った。震える手に重ねられた、憧れの彼の手は確かに熱を孕んでいる。わたしだけの熱ではないことが分かった瞬間に顔を上げれば、彼の手に力が入ったのがわかった。はじめて、告白してくれたのも速瀬くん。そして、こんなわたしの手を握ってくれたのも、速瀬くんがはじめてなのだ。もう、逃げようだなんて、彼のことを嫌いだと考えることは一切止めようと思う。机を元の位置に戻しても、速瀬くんが伸ばした手に捕まえられて包み込まれた手はホームルームが始まるまで離されることがなかった。



Image song:命短し恋せよ乙女/MOSHIMO


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