彼女の両親が事故にあって亡くなったという話は親しい人しか知らない。中学に入学した後の彼女はいつもと変わらない、そんな雰囲気を醸し出していた。中学校は小学校と違って、やって来る生徒が住んでいる地域の範囲も広がるため、最初から知らない人も多い。彼女にとってはそれが良かったことなのかもしれない。もちろん、友人たちが彼女のことを大いに気にかけていることは俺が見ていても分かったが、それでも普段通り接しているのを見て、素直にすごいなと思った。 俺は親から言われて気づいたというのに、彼女の友だちはそれを最初から分かったように行動しているのだ。女の子ってすごいな。 でも友だちでも知らないことを俺は知っている。あの事故の日の表情、それから皆の前では決して見せない弱い姿。学校では明るく振る舞っていて、辛さの微塵も見せない。家が近いため、彼女の姿を見かけることは多いのだが、学校とは打って変わった表情なのだ。 といっても、あの日から俺と彼女が接することが消えてしまっていた。あんなに一緒にいたのに。近すぎる程の距離を保っていたのに、あれを境にぱったりと他人行儀になってしまったのだ。唯一残っているのは他人行儀のクセに名前で呼び合っているということだ。 それに俺はバレー部に入って熱心に打ち込む毎日。何をするにしても第一にバレーというものが頭の中にあった。部員たちと練習することが楽しくて、試合で勝ったり負けたりして。次第に彼女のことを意識することはなくなっていった。姿を見ても声を掛けることもない。話すことだって、学年が上がるごとに機会は減っていき、遂には中学卒業を迎えることになってしまっていた。相変わらず笑っていたけれど、俺はそれが彼女の心からの笑顔じゃないということを知っている。なんだかちょっぴり嬉しかったりする。喋ることなんてないし、接点もほとんど消えてしまったというのに、俺と彼女の繋がりは消えていないと自分で思い込んでいた。 窓の外を見ながらそんな昔のことを振り返っているとチャイムが鳴った。昼休みというのは学生にとって楽しみな時間の一つで、俺にとってもそうだった。高校三年になった俺はバレー部の部長となっていて、頼りになる同級生に慕ってくれる下級生たちと人の繋がりには大変恵まれていた。一期一会という言葉が身に沁みるよう。 昼休みを終えた俺は教室に入ってくる教師を見ながら、先生の目の前に座っている彼女の姿を後ろから見ていた。結局、俺はあの幼馴染とずっと一緒で高校も同じ。三年になったらクラスも一緒なものだから驚いたけれど、変わってしまった関係は修復出来ないままだった。俺は彼女のことが大切だからこそ、そのままでいいと思っている。きっと、彼女は俺と一緒にいたらあのことを思い出してしまうだろうから。 大学はさすがに違うだろうし、このまま俺のことを忘れてしまえば彼女のためになるだろうと考えている。だって、大切な女の子なのだ。このままそっと関係が自然に消えていくように努めるのが俺に残された最後の、彼女のために出来ること。 「…名前」 小さく呟いた名前は、先生に当てられて音読を始める彼女の声によってかき消された。それが余りにも俺たちの関係を表しているようで教科書で周りから見えないように口元を隠しながら自嘲する。 けれど、彼女から忘れられることを考えたら怖くてしょうがなかった。隣にいて笑って欲しいなんて思ってしまっている。自分の中で葛藤を始めたが、どちらの結末を望んでいるかなんて自分でもはっきりと分かっていた。切り離そうにも最後の踏ん切りが付かず、ずるずると続いてしまっている曖昧な関係。それでも彼女の中に澤村大地という存在が少しでもあるのなら良いか、そう思ってしまう。 自分が彼女にしてあげたいことは、自分がしたくないことなのだ。彼女の声を聞きながらも教科書の字なんて読めなかった。 試合に負けた。 大会を快調に勝ち進んでいたので、このままなら優勝も狙えるかと一瞬考えたりもしたのが甘かった。俺たちは負けた。三年にとったらこれが最後の大会で、負けてしまえば部活の終わりを迎えることになる。 主将として彼らに何が出来るのだろうか。次のステップにこの部が進むためにはどうすればいいのか。悩みながら、零れたのは生温かいものだった。それが涙だと分かるまで時間がかかったのに自分でも驚くばかり。そういえば、あの日涙を拭ったときは手に収まらなかったけれど、今なら自分の涙くらいなら収まる。 ああ、そうか、俺はまだバレーをやっていたいんだ。 ついこの間まで小さな手だったはずなのに気が付いたら、こんな大きな手になっていた。この手だったら誰かの涙も拭ってあげられそうだ、なんて思ったら彼女の姿が浮かんで本当に自分は諦めの悪い奴だと首を振った。一人で良かったと思う。こんな姿をチームメイトたちには見せられない。だって俺は主将だ。彼らの先頭に立っていなければならない。泣く姿なんて見せたくない。飯のときは感極まって泣いてしまったけれど、もうあんな醜態を見せないと心に固く誓ったのだ。 「…大地」 背中に飛んできた声にびっくりして涙を擦るように拭うと普段通りを装って振り返った。声を聞くだけで、その声の持ち主が誰かなんてすぐに気づいている。彼女と過ごした時間は自分の人生の中で大半を占めているのだ。例え、言葉を交わさなくなってしまったって、ずっとずっと頭に残っている。どうしてこのタイミングで彼女と出会わなくてはならないのかと神様を恨みたい。 「どうした名前、珍しいじゃないか」 「大地が、泣いてたから」 核心を突いた彼女の言葉に動揺を隠しきれない。 泣いていたときに言葉をかけるのは難しいと知っている俺からすれば、彼女はすごい。言葉が思いつかずにその場に立ち尽くしてしまった幼い頃の俺が脳裏を過った。顔をぐちゃぐちゃにして泣きじゃくる彼女に何か言ってやることは出来ずにいた、あの時。 「べ、別に泣いてなんかないぞ?」 「うそつき。泣いてるくせに。主将さん」 「泣いて、なんか」 「ほらだって目が真っ赤だもん。どうせ主将だからとか言って一人で背負おうってしてるんじゃないの?」 一人で背負っているのは同じだろ、と言いかけて口を噤んだ。ここで掘り返してはならない。自然と俺も距離を置き、彼女は前を向き始めたかもしれないのだ。昔からの性格上、いつまでも後ろを向いているような子ではないけれど、家族の死というものは人間の精神に多大なる爪痕を残していくものである。せっかく時間を経て、だいぶ落ち着いてきたようにあるからこそ、その言葉は声に出来なかった。 「…っ」 「ん、そうでしょ?」 一人で背負っているつもりはないが、知らず知らずの内に自分の中に閉じ込めてしまっているらしい。主将という立場が俺に襲いかかってきた最初の頃は本当に苦労したものである。最近になって自分の中で処理しきれるようになってきたというのに。下級生もいるのだから、主将として自分がしっかりしていなければならない。皆それぞれ個人で頑張っているのも知っている。じゃあ、それを支えるのが主将だ。弱音なんて吐いていられない。だから、揺るがさないでくれよ。 「一人じゃないよ。みんないるよ、大地」 「それは…!」 「大地の周りにはたくさん人がいるよ」 オウム返しでその言葉をそっくりそのまま返したい。彼女にもそう言ってやりたかった。一人じゃない、だから周りをもっと頼っていい。一人じゃない、だからそんなに自分だけで抱え込まなくていい。自分のありのままを曝け出して構わないのだ。 「名前は…」 「わたしも大地の周りにいる一人だからね。忘れないで」 俺を忘れることで彼女の負担を少なく出来ると思っていたのに。 あの痛ましい事件はもちろん、彼女にとって一生忘れることの出来ないことであることは重々承知の上だ。でも、学校に来て、友だちと喋ったり遊んだりすることでその笑顔を取り戻して、前向きになれるかもしれない。葬式にも参列し、あの日、事件の日にも一緒にいた俺と会うことはその事件を思い出させてしまうのではないか。だからこそ、俺と接しないことが彼女にとって最良であると思い込んでいた。そして、そのまま忘れてしまえばいい。そうだというのに、彼女は俺を忘れる気なんてないらしい。 「名前はどうしてこのタイミングで話しかけるんだ」 「…だって、大地はわたしの、」 「それ以上言うな」 「…大地」 「名前、俺にこれ以上関わるな」 「なんで…?」 「お前は俺に関わると、その、親のことを思い出すだろ…?」 ついに鍵を掛けていた、開けてはならない扉を開いてしまったのだ。冷たい言い方になってしまったかもしれないが、これは彼女を大切にしたい俺の決断だから。揺るがすようなことはせず、そのまま、お願いだから頷いて。関係を終わりにしよう。俺は踏み込んではいけない場所に入ろうとしているのだ。 「ねえ、大地。わたし、大地を忘れたいなんて思ってない」 「…なんでだよ」 「あの事故は大地のせいじゃない。どうして大地を忘れなきゃならないの?わたし、あの時から大地とどう接していいか分からなくなって、ずっと避けてきちゃった形になってたけど、大地はわたしの大切な人だから」 「…名前、」 「お母さんとお父さんがいなくなっちゃったこと、悲しいよ。でも、でも、大地までいなくならないでよ…」 その場で泣き崩れる彼女を咄嗟に受け止める。あの時のように彼女に何も出来ない自分は嫌だった。彼女のためを思って今までやってきたことは反対に傷つけていたらしい。全然、分からなかった。だから今度は泣いている彼女をなんとかしてやりたい。そっと背中に手を回し、彼女の小さな体を支えてやる。あの頃支えてあげられなかった分まで。今度こそは。 「名前、ごめんな。俺、そこまで考えてなかった…お前が俺を忘れられたら、少しはあの事故のことを思い出さなくて済むかなってさ…」 「ううん、大地はあの日、わたしの元に来てくれた。嬉しかった。でも、何も言えなかった。そんなわたしが嫌で」 「結局あの事故に向き合えてなかったのは俺だったんだな…」 「人を失うことの恐怖を知ってるからこそ、わたしは大地を失くしたくない」 「…俺だって、名前がいないのは嫌だ」 「これから、わたしと元通りになってくれる?」 「もちろん」 「じゃあ、大地。今年の誕生日はお祝いさせてね」 「ああ、待ってる」 このまま彼女の腕が俺の背中に回ってこないだろうか、と思っていたがそう上手くいくものではなかった。離れていく彼女を惜しく思いつつも、関係を修復することに至ったので嬉しく思う。 主将としても、しっかり考えようと思った。一人じゃない。自分だけで考えることも大事なことだけれど、きちんと周りの人と向き合おうと思った。そして、約束の日には彼女とちゃんと向き合おう。 「じゃあね」 「…家まで送ってく」 「すぐそこなのに」 「昔はそうだったろ」 「…そうだね」 |