*女の子≠プロデューサー



期待を持つことは気持ちを昂ぶらせることにも繋がる上に、その通りになれば、歓喜の感情で溢れるだろう。その反面、ひとつ道を違えただけで期待外れの結果に終わり、裏切られたような気分にもなる。表裏一体の感情だ。桜庭薫という人間は、身近な者以外からだと素っ気ないように見える。彼と接点があり、親しくしている者はどんな人物であるかを熟知しているからこそ、そのような印象を持っても本当はどう思っているのか、彼はどういうつもりなのか、少しは理解することができる。彼の所属するアイドルグループのメンバーやプロデューサーがその良い例だろう。最初こそ、冷静で感情をなかなか表に出すことがないと思われていたが、そうではない。長い時間を共にし、アイドルとしてステージを重ねる上で彼は少しずつ、居心地の良い場所を見つけていた。そうなれば、自然とその場に溶け込んでいく。
苗字はそんな桜庭と友人関係の女である。アイドル活動に勤しむ彼をテレビで見ることが多くなり、最近では話をできる時間も減っていた。寂しいと感じていたのも確かである。しかし、ライブステージに立つ彼を見て、自分の我が儘は桜庭を困らせるものだと思い知らされた。自分の知らない桜庭が煌くステージの上で歌って、踊って、そして笑っている。直接会った時、あんな表情を見せた記憶なんてなかった。桜庭は苗字と会った時、自分の話をしない。その代わり、彼女の仕事の話を中心に近況を語らせ続けるのだ。まるで、線引きをされているようにも苗字は感じていたが、桜庭薫という人間は不用意に詮索されるのを嫌い、踏み込まれることを心底嫌っていたことを知っていたために、彼女はどうしても桜庭の話を聞けないのである。眼鏡の奥の鋭い目が、詮索をするなとばかりに睨みつけているようにしか思えないのだ。自分の姿は、アイドルとしての表面だけにとどめておけとばかりに。
苗字は定時に会社を後にした。朝から触っていない携帯を鞄から引っ張り出し、久しぶりに電車の時間を検索しようと画面を明るくする。最初に通知欄を確認すると、桜庭からのメッセージが届いていることに気づく。ここ最近、連絡もロクにとっていなかったな、と溜め息をついたが、同時に彼からの連絡に心躍らせているのも確かだった。メッセージが送られてきた時間を見てみると、午前中を指している。こんなことなら昼休みにでもチェックするべきだったと思いながら、メッセージの通知をタッチする。一瞬表示された真っ白の画面に久しぶりに話がしたい、との文面が彼女の目に飛び込んできた。いつも通りであれば、苗字が話を根掘り葉掘り聞かれるだけなのかもしれないが、それでも彼女は期待を膨らませるのである。こうして、何度も会ってもらえるのならば、いつか桜庭自身の話が聞けるのではないか。この期待は幾度も裏切られてきたのだが、彼女はやめられない。時間や場所を確認すると、了承の簡素な返事を送って、鞄の中に携帯をしまう。桜庭らしい、個室で食事ができる場所だった。またこの時間の電車を検索する必要はなくなってしまったが、苗字は時計を見ながら指定の場所へと足を運ぶ。







「桜庭さん」
「……遅い」
「ごめんなさい、だって会社から少し遠いのだもの」
「君の方が仕事は早く終わっただろう?」
「……バレちゃってましたか。途中で本屋とCDショップに寄ってました」



苗字は会社の鞄を開く。きっちりと並べられたファイルとファイルの隙間に、本屋とCDショップのビニール袋が挟まっている。それを取り出すと、お冷とおしぼりしか運ばれてきていないテーブルの上に広げた。桜庭の眉がぴくりと動いたことに彼女は気づくことはない。テーブルの上の一冊の雑誌と、最近発売されたばかりのCDは個室の仄かなライトによって照らされていた。窓から月光もほんの少しばかり差し込んできていたが、ライトも月光も雑誌の表紙とCDのジャケットには勝てなかった。ふふ、と笑う苗字は桜庭によく見えるようにとそれらの向きを変える。どちらにも、桜庭が載っている。それも、たくさんの仲間に囲まれて、だ。



「ほら、桜庭さん!」
「……事務所で見たが、他人が買っているのを見ると少し気恥ずかしいものがあるな」
「ファンとして買わないわけにはいかないでしょ?」
「君はその、楽曲は聴いたのか」
「え?ああ、試聴は一回しかしてないから聴き込めてはいないかな。安心して、帰ったら何千、何万回と聴くから!」



久しぶりの新曲に高揚している苗字とは対照に、桜庭は浮かない顔をする。それが何を意味しているのか、今の彼女に分かるはずもない。桜庭がこうやって少しずつだが、感情をふとした時に覗かせるようになってきているのにも関わらず、苗字は気づかないままだ。



「桜庭さん、これどんな歌詞を担当しているの?」



楽曲の話ならば、きっと聞いても不機嫌な顔になることはないだろうと思った苗字は興味深々で桜庭に尋ねた。関係者以外は知ることのない楽曲制作中の話だったならば、桜庭は口を閉じてしまうだろうが、もう世に出た楽曲の歌詞のことは話にしたって構わないはず。CDを指差しながら彼女は顔を上げた。桜庭は眼鏡の縁に指を当て、苗字の視線から逃れるようにそっぽを向いている。彼が見ている先には、この楽曲に似合う光景が広がっており、まるでライブ会場に来たのではないかと一瞬錯覚させるようだった。なかなか苗字の方を見ようとしない桜庭に、これも聞いちゃいけないことだったかなと内心しょんぼりしながら彼女は雑誌とCDを大切にビニール袋に入れ直し、鞄へと入れる。このタイミングで黙られると、次の話も切り出しにくかったが、いつも通り自分の話をしようと苗字は口を開きかける。その時に店員が個室の扉をトントンと叩き、失礼しますと部屋へ入ってきたので喋るタイミングはどこかへ消えてしまった。むしろ、この沈黙を破ってくれてありがたいと苗字は思った。桜庭は依然として、窓の向こうを見つめたままである。
次々と並べられる料理は桜庭が全て注文したものであり、苗字は一切口を出していない。というのも、彼女が好む食べ物は桜庭が把握しているのである。仕事帰りに食事をすることが多い二人はお互いに好き嫌いを知っているので、店を指定した人が料理を頼むという暗黙のルールがいつの間にかできあがっていたのだ。



「……苗字」



口を堅く閉じていたはずの桜庭が突然名前を呼ぶものだから、苗字は驚き、持っていた箸を落としそうになる。豪華な王城において、守衛たちが立ち塞がる大きな扉が開き、立ち入ることのできないはずの王の間に通されたようだった。彼が苗字の名を呼ぶことは二人での食事の際も数える程しかなかったが、彼女はそれがたまらなく好きでしょうがない。手の届かないはずのアイドルが目の前にいて、自分だけの名を二人っきりの時間の中で呼んでくれるのだ。それは、彼女の期待を膨らませる要因のひとつである。だからこそ、苗字は期待をするしかないのだ。例えどうなったとしても、期待を抱かずにはいられなくなってしまっているのである。しかし、いくら待っても桜庭の言葉が続かない。大体、不意打ちで名前を呼ばれたかと思えば、苗字の話をするように仕向けるはずなのである。いつもと違う。そう感じた彼女は背筋をなぞられるような気分だった。桜庭が、いつも通りにしてくれたのなら、もうそれでいい。今回ばかりは期待を早く裏切って欲しいと思うばかりである。彼女自身はだいぶ前から、自分を誘ってくれる桜庭のことをどう想っているかなんて気づいていたのだから。



「苗字、僕はきっと言葉の選び方が上手くない」
「……え?」
「知らないうちに君のことを傷つけるかもしれない。君をきちんと喜ばせることもできないかもしれない」
「桜庭さん?何を突然」
「それでも」
「……待って、桜庭さん、あの、」
「……その表情、誰にも見せるな」



苗字は表情のことを指摘され、慌てて両手で顔を覆う。桜庭の口から溢れる言葉は彼女が一度も聞いたことのないことばかりだった。なぜなら、彼は自分自身のことを語っているのだから。苗字が踏み込んではいけないとばかり思っていた場所へ、手を引っ張ったのは桜庭に間違いなかった。



「今まで君の話ばかりを聞いていたが、僕の話も聞いて欲しい」
「そ、それはもちろんですけど、さっきのはどういう意味ですか……?」
「それは聞くな」
「え!どういうことですか、桜庭さん言い逃げなんてずるいですよ!」
「うるさい。もう喋るな」



桜庭は自分の隣に置いていた鞄をいつになく乱暴に漁ると、苗字に向かってイヤホンを差し出した。有無を言わせないとばかりの彼の表情を見た苗字は何も言わないままに、自分の耳にイヤホンを付ける。携帯音楽機器の操作音がピッ、ピピと鳴っている。操作をしている桜庭の表情は何かを覚悟したような、切羽詰まったような、そんな表情だった。まるで余裕がないと言いたげなもので、苗字もそんな彼にかける言葉を見つけることはできず、流れてくるイントロに耳を傾けるしかなかった。



「この、曲……」



一度しか試聴したことがなかったが、耳に残っていたイントロに思わず言葉が零れる。桜庭は箸を持って、目の前の食事をつつき始めていた。表情を変えずに、苗字の存在を頭の中から追い出そうと必死である。気づかれてはいけない。自分の表情から感情を悟られてはならない。しかし、ついにここまでやってしまったのだ。桜庭の葛藤の末の答えだった。
苗字の耳には天道や柏木の声も確かに届いていた。けれども、今いちばん自分の心に響くのは桜庭の歌声である。彼女が歌に集中し始めたのを見て、桜庭は音楽機器が示す時間をじっと見ていた。自分たちの楽曲だからこそ、この再生時間の辺りはどういう歌詞で、誰が歌っているのか分かっているのである。そして、彼の指が停止ボタンを押す。



「桜庭さん、わたし、どうしたらいいか、わかりません。こんな歌詞を聴かされて、あんなこと言われたら、わたし、都合よく解釈しますよ……?」



彼女の投げかけに何も言わない桜庭は、立ち上がって苗字との距離を詰めるために動き出す。二人で使うには少々広い個室は、掘り炬燵式になっている。苗字は反射的に距離を取ろうと、座っている位置を変える。今まで向かい合わせになっていたが、桜庭は彼女の隣に座った。



「……構わない」



苗字の全身の熱が一気にかけあがる。至近距離の桜庭は、緊張で震える彼女の手に自分自身の手を重ねた。ぴくりと反応して逃げようとする彼女の手を捕まえて離さない。この人になら、自分を見せてもいい。そう思った桜庭だったが、言葉にはしない。その代わり、別の言葉を彼女の耳元で囁いた。擦れたその声は大層色っぽく、彼女の瞳は揺れる。おいで、と瞳を細めて言った桜庭の表情を苗字は知らない。

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