*女の子≠プロデューサー



「天道さん!」



ダンスレッスンを終えた天道は首にかけたタオルを引っ張りながら、柏木と桜庭のあとをついて歩いていた。柏木は今日のダンスの難しいところをどうすればいいか、桜庭に尋ねている。天道はそんな二人のやりとりを見ながら、今日も充実した練習だったと満足気に笑った。そこに彼の名前を呼ぶ女が現れたのである。声のする方を振り返った天道は、自分の前を歩いていた二人に先に帰って構わないと手で合図をした。天道を呼び止めたのは、いつだったか共演した際に仲良くなった苗字名前という歌手である。



「おう、お疲れ」
「そちらこそお疲れ様です」
「最近は収録が被らないから、お前の顔忘れそうだったよ」
「わたしは天道さんの顔を一回見たら忘れませんけどね!」
「嘘だって。そんなにムキになるなよ……子どもっぽいぞ」
「天道さんに言われたくないですけどね」
「……はは、せっかく会ったんだ。飯でも行くか?」
「他の二人はいいんですか?」
「大丈夫だ。苗字は?」
「わたしは大丈夫ですけど」
「いつでも?」
「……寂しい人を見るような目をしないでもらえますか!?」



頬を膨らませた苗字は天道とあまり歳の変わらない女だった。天道たちと共演した際の音楽番組がテレビデビューの日であり、会場に入ってから彼女は足をガクガクと震わせていた。足の震えが止まらないのである。彼女は緊張を解す術も持っていなかった。マイクを握る手だって、汗まみれで、全身を流れる汗は止まることを知らない。顔色は真っ青で、関係者たちも不安でしょうがなかったという。もともと路上で活動をしていたため、人前に出ることは慣れているはずだったが、テレビとなれば話は別だった。路上とは比べものにならない。リハーサルでも、マネージャーから心配され続け、結局本番までに普段通りの歌を披露することはできずにいたところで、声をかけたのが天道だった。気負うことはない、上手に歌おうなんて思わなくていい。苗字名前という歌手ですというアピールができればいい、そう天道は言ったのである。彼女にかけた言葉が果たして正解だったかと問われれば、活躍するプロたちに甘いと一刀両断されるに違いなかったが、その時の苗字には天道の言葉が身に沁みたのだ。天道は彼女のことを見て、まるでデビューしたての自分たちを見ているようだと思ったらしい。桜庭もどこか冷静さを欠いていて、柏木は不安そうに瞳がずっと揺れていた。天道自身も大きな重圧に押し潰されてしまいそうで仕方なかった本番前の、あの瞬間が彼の脳裏を過ぎる。そんな自分たちに誰かが言ったのだ。君たちらしく、やればいい。自分たちがDRAMATIC STARSだとステージの上で言うことができればいいと。彼女への言葉は完全に受け売りだったが、それでも苗字をステージの上で輝かせるには充分な言葉だった。



「俺の行きつけのバーで構わないか?」
「天道さんとはそこしか行ったことないですよ?」
「そうだっけか」







店内は落ち着いた明かりがいくつも並べられていて、大人が集う空間と時間にはうってつけの場所であった。天道は大変気に入っている。彼にエスコートされるように歩く苗字はさながらお姫様のようだった。彼は魔法でも使っているのではないかと、周りの人間たちに思わせるようである。彼女も薄々感づいてはいたが、天道輝という男は女性の扱いに大変長けている。しかし、無意識にやっているようで、それがますますずるいところだった。からかったり、弄ったりすることも好きなくせに、こうやって大人の男の面も見せるのである。
薄暗い中で苗字は天道の顔を見る。横顔が思ったよりも近く、目があった瞬間に逸らした。天道にはそれが面白かったようで、彼は笑う。



「苗字、恋する女の子みたいな反応してるぞ?」
「……ち、違います!天道さんが近いから、ちょっとびっくりしただけですよ!」
「そんな必死に言われると、複雑だな」



用意されたグラスをかつん、と二人で乾杯する。静かな空間にガラスの特有の音が響き渡る。天道が酒に強くないことも、そして苗字も同様なことをお互いに知ってはいたが、この場所で乾杯することに飽きを感じていなかった。というよりも止められない、が正しいのだろう。たった一度の共演だったが、二人にとっては貴重な出会いなのである。特に苗字は自分を助けてくれた天道のことをとても尊敬していた。彼の言葉がなかったら、と考えると恐ろしくてたまらない。



「最近はどうだ?」
「お仕事をたくさん頂けるようになってきてます。毎日疲れますけど、嬉しい疲れです」
「そうか」
「天道さんの言葉、今でも覚えてますよ」



グラスを置いた天道はカウンターの方を向いていたが、隣に座っている苗字の方に向き直す。天道が真っ直ぐこちらを見ているのを彼女はすぐに察知したものの、自分から向き合うことはしなかった。座った椅子を左右に少し揺らすだけで、天道と真正面から向き合うところまでいかない。横目でちらりと彼を苗字が見ると、目がまた合う。恥ずかしい気持ちが彼女の内で圧倒的勝利を収めていた。それに耐えられなくなった苗字は気を紛らわすためにも、話題を切り出す。



「今夜の空は、この前天道さんたちが出した曲に似合いますね」
「ああ。聴いたか?」
「もちろんです。ここのところ、毎日聴いてます」
「それは嬉しいな。これからも応援頼むぜ!もちろん、苗字のことも応援してるぞ」



ぐいっと、不意に苗字は肩を引っ張られた。椅子はくるりと回り、天道の瞳が彼女を捉える。アイドルとしての瞳ではなく、まさにさっき垣間見せた大人の男の瞳だった。吸い込まれるという表現がぴったりだと思った苗字の頬は、彼女が飲んでいたカクテルに近い色に染まりつつある。彼女の両肩は天道が捕まえたままだったが、苗字はあることに気づいた。天道が触れているその手が、なぜだか震えている。今からステージに立つわけでもないというのに。何かに緊張しているのは分かったが、天道の表情はそれを忘れてさせてしまうくらいだった。真剣な瞳に射抜かれてしまうような、そんな印象を受けた苗字は、いつもの冗談でしょと天道に投げかけたが、彼は何も言わない。天道の手を外そうと、彼女は自身の手で彼の手首を掴むつもりだったが、それは叶わない。彼女の手は天道の手に絡め取られる。冗談ではないことをそこで初めて理解した苗字は口を開こうとするが、それも制止されてしまう。



「……苗字」
「あ、あの、天道、さ……っ、ん」



今宵は一杯の酒で酔っているのかを尋ねようとした苗字のくちびるは、天道によって啄まれる。いつの間にか離された彼女の手は行き場を失ったままだったが、天道の腕は苗字の腰に回っていた。もう、逃げられないと本能で感じた苗字は思考を放棄する。嫌だと抵抗することもできたはずなのに、それができなかったのは彼女も酒に呑まれてしまっているからなのか。それとも、苗字は天道とこうなることを心のどこかで望んでいたのか。
向きを変えつつ重なるくちびるは、薄明かりのおかげで周りの人にはよく見えていなかった。しかし、天道には暗闇の中で自分を誘うようにいるように見えていたのである。酒のせいとも言えるかもしれないが、彼女が自分たちの歌を話題に出したために、自分の担当の歌詞を思い出してしまったことに煽られたことも、要因のひとつとしてあるのかもしれない。まさに奪うけどいいかな、という言葉を。それに天道は小耳に挟んだのだ。苗字は天道輝を尊敬している。その上、一人の男として好いていると。はあ、と吐いた息はどちらのものか、二人にはもう分からない。



「苗字、好きだ」
「……天道さん」



苗字も応えるように頷く。天道はいつものように笑いながらも、腕をゆっくりと広げた。そして、彼女だけに聞こえるくらいでそっと囁く。いじらしい、愛おしい人へ。自分の女になって欲しいという気持ちをありったけ詰め込んで、その言葉を零すのだ。蕩けそうなくらい、とびっきり甘く、おいで、と苗字の耳を擽る。もう、躊躇いなんて彼女にはひとつもなかった。
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