休日の夕方、参考書を買うために本屋に寄っていると、なにやら外が騒がしい。野太い声が聞こえてきたので、わたしはどこかの運動部だと判断した。この集団が行き過ぎてから外で出ようと、会計をしながらチラチラと外を見る。あれ。あの人、テレビで見たことがあるような。通り過ぎて行く人の名前を心の中で呟く。えっと、君下、大柴。言い争いを繰り広げながら、本屋の前を通り過ぎていく彼らの名前を繰り返せば、心臓が激しく動き出す。静かな本屋とは対照的に、わたしの身体の中はとても煩い。君下に、大柴とくれば、次にメディアが揃って取り上げるのは、幼馴染の名前だ。み、ず、き。そう、自然に口から声が零れる。最後の文字を紡いだとき、自動ドアを挟んだ向こう側に見えたのは、わたしよりも遥か彼方の前方を歩く、水樹だった。お釣りを受け取ったわたしは、彼らが通り過ぎるよりも前にドアの前に立つ。ドアの開く音に振り返った水樹と目が合う。足が止まった。そうして、わたしは久しぶりに幼馴染に名前を呼ばれる。お釣りをお財布に入れようとすれば、手に持っていた参考書がバラバラと地面に落ちる。水樹は首を傾げている。俺は名前を呼んだだけ、とでも言いたげに。



「大丈夫ですか!?」
「ご、ごめんなさい。ありがとう」



大柄な選手の合間から、小さな子が飛び出してくる。水樹に顔を向ければ、柄本だと言った。柄本くんにお礼を言っていると、水樹の後ろからやって来た臼井くんが先に行くぞ、と通り過ぎていく。一瞬だけ、臼井くんと目が合ったのだけれど、彼はニコリと笑っていたような気がする。臼井くんとは一度だけ会ったことがあり、唯一面識のある水樹の部活仲間である。わたしは気にしないで、と言いたかったのだけれど、先に水樹が頷いていた。



「名前、久しぶりだな」
「そ、そうだね。水樹、いいの?みんなは」
「問題ない。名前を送っていく」



間髪入れずに言い放った水樹は会話をしてみれば、全く変わっていなかった。彼の活躍ばかりを目にしてきたわたしは、すっかり置いていかれたような気持ちでいたけれど、そういうわけではないらしい。幼馴染は思ったほど、遠くにはいない。わたしのことを忘れていなかった。そう、わたしの知っている、幼馴染の水樹寿人。それが分かった瞬間に涙が込み上げてきて、思わず泣きそうになったけれど、ぐっと唇を結んで我慢する。水樹は、名前、変な顔してると言う。こういうところは本当に相変わらずだった。
久しぶりに並んで歩くのはどこか新鮮で、胸が高鳴る。実は、随分前から、自分が抱いている自分の気持ちが幼馴染の関係だけでは収まらないことを分かっていた。でも、水樹に言ったところで何かが変わるわけではないと思う。水樹はそういう人だ。特別な関係になっても、今までときっと一緒。恋愛事に疎い水樹を理解しているからこそ、わたしはもう一歩が踏み出せずにいた。それならば、もうこの関係で満足してしまえばいい。隣を歩くことができるだけで、わたしは満たされるのだ。



「名前の隣を歩くのはいつぶりだ?」
「さあ?」
「……安心するな。お前がそばにいると思うと」
「幼馴染だからね」



水樹は結構際どい言葉選びをたまにするものだから、変に勘違いしてしまいそうになっていたのは、恋心を自覚したばかりの頃だった。今では、その言葉が深い意味を持っていないことも分かっているから、期待を抱いたりしない。きっと、水樹は学校でもかなり罪深い男になっているのだと思う。こう、思わせぶりなことを無自覚でやっているから。その辺のフォローは臼井くんがしていてくれたりするのだろうか。未だに水樹に彼女ができたなんて話は聞かないし。幼馴染として隣を歩くことができる日は、あと何日わたしに残されているのだろうか。ふと、隣を歩く水樹を見上げれば、彼もこちらを見ていたようで、目が合う。臼井くんともさっき目が合ったけれど、やっぱり相手が違うと感覚が全くといっていいほど違うものだ。夢でも見ているかのように浮かれた気持ちになると同時に、見つめ合っているという現実に恥ずかしさを覚える。



「やっぱり、変な顔」
「水樹さっきからそればっかり」
「だって、名前が変な顔してるから」
「はいはい、どうせわたしはいつも変な顔ですよーだ」



照れたのも一瞬で、いつもの水樹のペースに飲み込まれていく。嬉しそうに、楽しそうに笑う水樹の表情を見て、心惹かれていることは間違いないと確信する。改めて、自分はこの人のことが好きなのだと思った。口には決して出さないけれど。
急に伸びてきた水樹の手にびっくりして足を止めると、水樹も立ち止まる。昔よりも随分大きくなった水樹の手は、わたしの頬を摘む。優しく撫でたかと思えば、また摘むことを繰り返す。じっと見つめてくる水樹の真剣な瞳に射抜かれたわたしは、硬直してしまって動けない。もちもち、と零す水樹をいつもなら小突くことができるのに、今日はそれすらもできなかった。水樹もいつもの反応が返ってこなかったことを不思議に思っているらしく、無言のまま、首を傾げている。幼い頃から見せるその仕草さえ、愛おしくてしょうがなかった。もう、わたしは、この人から逃げることは叶わないのだろう。しばらく続いた静寂を切り裂くように、水樹はわたしの名前を呼ぶ。そんな瞳で、そんな声で、そんな表情で、呼ばれたのなら、わたしだって昔のように水樹のことを。



「名前?」



水樹のことを、寿人くんと呼びたくなる。幼馴染だけが許されたその呼び方で、彼を呼びたくなるのだ。特別な関係ではなくても、幼馴染という関係を利用して、いつまでも彼のそばで笑っていたくなる。それが、永遠に続くものではないと知っていても。伝えたところで、きっと水樹はわたしのことを幼馴染としか考えることはできないはず。器用な人ではないのだから。



「んー?」
「あ、いつもの名前」
「わたしはいつも通りだよ。水樹」
「うーん?」



急に唸り始める水樹に首を傾げるのはわたしの番だった。離れていった手が触れていた場所に容易に自分で触れることができないのは、そこに篭った熱に触れることが怖くて仕方ないから。触って、熱を確かめてしまったのなら、ぬくもりを拭うことなんてできない。そうして、加速していくこの想いにブレーキをかけることが難しくなってしまうのだ。せっかく、ここまで押さえ込めているのだから、本当に水樹が遠くに行ってしまうまで我慢しよう。その決心を揺らがせることは、なるべく避けたいのだ。



「名前、昔の呼び方」
「え?」
「水樹って呼ぶ前の」
「それは」
「呼んでくれないのか?」



ずるい。無意識だからこそずるいのだ。水樹はわたしの顔を覗き込むようにして、自分の願いをぶつけてくる。いつでも真っ直ぐな水樹に弱いことを彼は知っているのだろうか。子どもっぽいワガママだと片付けてしまえばいいのに、それができないわたしは本当に弱い。すぐに決心が揺らぐのは、この目の前の人のせいに間違いない。それに、わたしたちが帰ろうとしている方向を塞ぐように水樹が立っているので、きっとこの人はわたしが言うまで帰す気がない。中学生の頃はわりとすんなりと諦めてくれたのに、今回はどうやら諦めてくれないようだ。たった一回、たった一回だけ呼べば満足してくれるのだろうか。それとも、これからずっとその呼び方に戻せというのだろうか。もし、後者だとしたら、どうして呼び方ひとつに水樹がこんなにもこだわっているのかが気になって仕方ない。ああ、もう、期待なんてしちゃダメだって分かっているのに。本当に水樹は、寿人くんは、ずるい。



「名前」
「ひ、寿人くん……」
「ん。やっぱり、それがいい」



帰るぞ、と満足気に背中を見せた彼の本心はなんにも分からないままだ。でも、わたしがこの背中に惹かれているのは本当に間違いないことで。わたしの呼び方ひとつで、水樹があんな顔を見せてくれるのならば、周りに人がいない時くらいは呼んでも、いいかな。参考書をぎゅっと胸に押し付けて、鞄を肩にかけ直したわたしは、水樹の隣に向かって走っていくのだった。追いついたわたしをチラリと見た水樹は、参考書を指差すと一瞬苦い顔をしたけれど、それをこっちに寄越せばかりに視線を送ってくる。言葉を交わさなくても、なんとなく相手の考えていることが分かってしまう。これも幼馴染だからかな、なんて思いながら、わたしはお礼を述べて、水樹に参考書を手渡した。すると、水樹は、これでもう一回呼んでもらえるかな、なんて小さく零す。その言葉を聞いた瞬間に、水樹の手元から一冊だけ奪い返すと、わたしは、『これでわかる!数学問題集』と書かれた参考書で顔を隠すように覆うのだった。

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