目覚ましを止めた手をベッドから、だらりと落とした。目を開けては、閉じる。毛布を手繰り寄せながら天井を見上げて、真っ白なキャンバスを色付けるように昨日の出来事を思い出す。水樹は結局あの後、わたしが参考書を持たせたことに対して、報酬を口にはしないものの、瞳で訴えてきたので逃げ道を塞いでいた。わたしは水樹の目を見て、名前を呼ぶことはできなかったけれど、寿人くんという言葉を聞いた水樹の小さな笑い声が聞こえてきたので、きっと彼なりに満足したのだろう。その場を乗り越えたわたしは、参考書を彼から全部受け取ると踵を返して、家に駆け込んだ。勢いよく閉めた扉は大きな音を立てる。水樹がどんな顔でわたしを見送ったのか知らない。振り返れば良かっただけなのに、当然振り返る勇気はなかった。 顔を洗って、服を着替えて、朝ご飯を食べる。普通の日曜日と何も変わらないというのに、心が静まらないのは、いつまでも昨日の水樹のことを考えているからだろう。土曜日に、参考書を買いに行って、その帰りにたまたま聖蹟高校サッカー部と遭遇して、水樹と久しぶりに会って。時間は長く感じたものの、短い距離を一緒に歩いただけなのに。いつもと違うのは、寿人くん、と名前を二回も呼んだこと。でも、昔なら当たり前のことだった。当たり前が当たり前でなくなった、それだけのことである。ほんの少しの時間だったというのに、どうしてこんなにもずっと水樹のことを考えているのか。答えは簡単なことだけど、それをいつまでも素直に受け入れられないわたしは、自分を好きになれない。他にも自分の嫌いなところはいくつもあるはずなのに、一番嫌いなところは水樹のことになると素直になれないことだ。寿人くんと呼んでいたあの頃は、びっくりするくらい素直だったのに。人が変わったのかと思うくらい。もしかしたら、わたし以上に驚いているのは水樹なのかもしれない。 パンにかぶりつきながら、台所で食器棚の前をウロウロとする、母と父の後ろ姿を見る。小さい頃はあまり意識をすることはなかったけれど、いつかはわたしも誰かとああいう未来を過ごすことになるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。自慢するわけではないが、一人娘のわたしの親はいつも仲良しだ。夫婦の関係に関する番組だったり、友だちの会話から親の喧嘩が酷いと聞いたことはあるが、わたしの親は例外のようで、喧嘩をしている姿を見たことがない。わたしの見てない場所で怒鳴り合ったりしているのかな、なんて思ったりもしたが、どうもそれもないらしい。一人娘を気にかけてくれる、尊敬すべき親だと思っている。そんな母や父は最近わたしの将来を心配している。比べる対象として、幼馴染の水樹がいることも大きく関係しているように思えて仕方がない。確かに水樹は先も決まっていて、わたしからすれば、行く道に敷かれた真っ赤なカーペットを歩いていくようなものだった。でも、そんな人と比べられたらたまったものではない。きっと、二人ともわたしにもっと言いたいことがあるとは思うのだけれど、線引きをしているらしく、ある一定の線を越えて言うことはない。それが逆に辛かった。頑張らなきゃいけないことは分かっているし、親に心配をかけたくない。けれども、どうしていいか分からない。なんとなく家に居づらいと感じたわたしは、朝ご飯を終えると、部屋に戻って先程身につけたばかりの部屋着を脱ぎ捨てる。ああ、こんな風に簡単に変わることができたら、人間苦労しないのになあ。外行きの服を身に付けると、髪型を整えて、勉強道具を詰め込んだ鞄を持ったわたしは母に声を掛け、昨日乱暴に閉めた扉の前に立った。立てかけておいたはずのお気に入りの傘が倒れていたので、所定の位置に戻す。 水樹は、今日、何をしているのだろう。いやいや、部活に決まっている。わたしは扉をゆっくり押す。吹き込む風はほんのり冷たくて、直接当たると身体が震える。昨日と打って変わって、とても静かに扉は閉まった。 日曜日は人が本当に多い。どこに行っても、カップル、家族連れ、様々な組み合わせで楽しそうに会話をしながら歩いている。もちろん、イヤホンを付けたわたしのように一人で歩いている人もいる。街は活気づいていて、雰囲気が明るかった。明瞭な気持ちを抱いているわけではないわたしには、眩しく、明るすぎるのだ。煌めいた街道を歩くことで、自分の影がはっきりと見えてしまう。いつまでも、水樹のことを引き摺っていることがよくないと指し示されている気分だった。 最近よく考えるのは、もし、自分が水樹のことを中学生の時に呼び方を変えなかったらということだ。寿人くんと呼び続けていれば、変な距離を取ることはなかったのかもしれない。そんな可能性も充分にあるような気がしてならないのだ。もちろん、今のような状況に陥ってしまうことだって考えられる。ただ、絶対的に違うと言えるのは寿人くんと呼ぶことをやめてしまった自分の悔やみだけは消せるということだ。周りに流されて水樹と一度呼ぶように決めてしまえば、簡単には元に戻せなくなってしまっていた。もう、気づいた時は遅い。寿人くんと水樹、呼び方を変えてしまったあの日に何度戻りたいと思ったことか。わたしの勝手な自己満足でしかないのだけれど、やっぱり水樹は寿人くんと呼ぶのが自分はしっくりくるのだ。そんなわたしに水樹は何度もチャンスをくれていたのだろう。昨日のやりとりだって、間違いなかった。 大きな溜め息をついたわたしは、勉強道具の存在を思い出して、近くにあったカフェに立ち寄った。ここは静かだし、あまり人も多くないから邪魔になることはないだろう。案内された席に座って、あ、と小さな声を漏らす。慌てて口を押さえて、周りを見回したが、わたしの声に耳を傾けている人は当然いるはずもなく、周囲の人は自分たちの空間を味わっていた。昨日せっかく買ったのに、あの参考書は水樹から受け取ってそのままレジ袋に戻してしまったのである。そして、机に置きっぱなしだ。水樹のことでこんなにも振り回されているのは自覚済みだけれど、昨日会ってしまったことでさらに拍車がかかっているらしい。熱くなる身体を冷ますように、氷がいくつも入っているオレンジジュースを一気に飲み干した。 |