ペンが止まった頃、もう外は夕日が沈んでいく時間だった。店内の人が減ってきたと思い始めていたけれど、それは当たり前である。もうそこまで、夜は迫っている。カフェ前の人通りも少なくなっていた。
ふと、紙袋をたくさん抱えて帰る女性の後ろ姿を見送っていると、彼女の耳からキラキラしたものが落ちる。雑踏の中で、落としてしまったのなら見つけることは困難に等しい。彼女にとってはかけがえのないものかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、その現場を目撃してしまったわたしは知らないフリはできなかった。飲み物代をすぐに計算すると、荷物を鞄に詰め込む。片手に握ったお金を頭の中でもう一度計算しながら、会計の場所へと急ぐ。店員さんが料金を口にしている時に足踏みしながら、お金を差し出した。いつもなら受け取るレシートも今日は、いりませんと断る。
お店の外に飛び出して、女の人が何かを落としたであろう場所を見ると、黒いジャージを着た男の人が立っていた。見覚えのある服で、一瞬足が止まりそうになったが、あの人はきっと落とし物を拾ったわけではないだろう。彼の足元をよく観察するが、光るものは見当たらない。もう少し近づいてみないとダメかな。



「名前?」
「水樹……」



そのまま通り過ぎてくれたのなら良かったのに。今日一日中、頭を悩ませる原因になっていた水樹がタイミングよく振り返った。でも、今は彼に構っている暇はない。名前を口にしたわたしは今それどころじゃないの、と振り切っていこうとする。口実があって振り切ることができることが今は大変ありがたかった。



「待って。名前、これ」
「もー!水樹、わたし、今忙しいんだってば……!」



鞄を引っ張られて、わたしの身体が後ろに倒れそうになる。危ないことをしてくれると思いながら、水樹を睨みつけた。すると、彼は右手を大きく開いて、何かを差し出してくる。大きな掌の中央に、ちょこんと煌めくアクセサリーは寂しそうだった。わたしが探していたものはどうやら、水樹が拾っていたらしい。そのイヤリングをしっかり持っていてよ、と水樹に声をかけ、手を伸ばしかけたけれど止めた。水樹に触れることを躊躇ったから。でも、説明する時間も惜しい。ここは、腕でも引っ張って無理矢理に連れて行く方が早いに決まっている。水樹に理解してもらうには、人よりも少しだけ時間がかかると分かっているから、尚更だ。時間は取られたくない。早く女の人を追いかけないと。頭を高速でブンブンと振り回すと、水樹がいつもの如く首を傾げた。イヤリングを握らせた方の手首をわたしは乱暴に掴むと、前だけを見て走り始める。水樹に触れている間は、彼の顔なんて見られない。それ以上に、わたしの顔を見せられない。
突然の行動に戸惑いを隠せないのは水樹も同じだとは思うが、彼は何も言うことなく走ってくれた。わたしの靴音以外にちゃんと音が聞こえる。必死に走る中で、女性の服装を思い出す。膝丈くらいのスカートで、ストールを巻いていて、茶髪で、帽子を被っていて。お洒落だなあと思って、目で追いかけて本当に良かった。



「あ!」
「名前?急に走り出してどうしたんだ」
「水樹、イヤリング貸して」
「え?あ、うん」



今頃理由を尋ねる水樹の声を聞き流していると、遠くから見ても分かる華麗な立ち姿を見つけた。見失ってしまったから、当ても無く走り回ることになるだろうなと思っていたけれど、これはラッキーな展開である。バス停で待つ女性の姿を捉えたわたしは、水樹の手首から手を離して、イヤリングを受け取る。その女性の元に駆け寄って行って、あの、と声を掛けた。携帯から顔を上げた彼女は、格好に劣らず美しい顔立ちをしていて、心を奪われて見つめてしまう。なにかしら、と微笑んだ彼女に我に返ったわたしはイヤリングを差し出す。声も、トーンも、女性らしさが滲み出している。わたしもこんな風になりたいと思うけれど、理想とは程遠い。アクセサリーを落としたことに気づいていなかったらしく、イヤリングを付け直した女性はわたしに何度も頭を下げ始めた。いつの間にか追いついてきていた水樹を彼女の前に引っ張り出すと、拾ったのはこの人ですと彼女に説明をする。水樹は何を考えているのか全く分からないような表情で、そんな様子に彼女は笑うだけだった。なんだか可愛いけれど、かっこいい彼氏さんね。そう、グロスの光るくちびるが言葉を紡ぎ出す。わたしは彼氏という言葉にひどく動揺して、真っ向から否定をする。彼女は微笑ましいとばかりの表情で、わたしの弁解はきっと聞いてくれていないだろうけれど。
バスに乗る直前、彼女は小さく零した。このイヤリングね、旦那がはじめてくれた大切なプレゼントなの。本当に拾ってくれてありがとう、と。見て見ぬフリも充分できたけれど、拾って追いかけて来て本当に良かったと心底思った。探す手間が省けたのは水樹のおかげでもある。



「水樹、ありがと」
「俺は拾っただけ」
「拾ったことが素晴らしいことなの」
「そうか。名前が嬉しいならそれでいい」



水樹がいたから。そう、わたしひとりだったら、もしかしたら間に合わなかったかもしれない。バスに乗った彼女の嬉しそうな横顔が頭から離れない。大切にしている物を失くす、喪失感は大きいものだろう。それが物にしても、人にしても。自分が大切に思っているものがそばから消えてしまって、悲しまない人なんていないはずだ。もう一度、水樹の方を見て、頭を下げる。彼女の分も、助けてもらったわたしの分と合わせて。



「水樹」
「ん?」
「本当にありがと」
「うん。よかった」

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