仮に男だったとしたら、自分のことを彼女にしたいだなんて思うはずがない。気分屋で扱いが大変面倒くさいのだ。迷惑をかけるというよりも、ひたすらに、うっとおしい。といっても、もの好きはいたものである。今朝、学校の下駄箱を開けてみると、なんとまあ古典的なことに、ラブレターと呼ばれるものが入っていたのだ。書き順が分かるくらいに流れる字で書かれた自分の名前に緊張したが、ときめきは決してそこにはない。差出人は隣のクラスの男子で、待ち合わせ場所と時間を指定していた。少し薄暗い時間であることが気に掛かるが、断るだけだし、問題ないかと思い直す。この男子は割と積極的なイメージがあり、連れている女の子はとっかえひっかえだったと思う。そう考えると、きっとわたしも手当たり次第のうちのひとりに過ぎないはずだ。ますます面倒である。でも、字がこんなにも美しいことは想像できなかった。人は見かけによらない。 放課後、約束の時間までを教室で過ごすことにしたわたしは、今日の課題を机の上に出すと、ちらりと時計を見る。もう少ししたら、この窓際の席から聖蹟高校サッカー部が見られるかもしれない。月にたった1、2回しか見たことはないが、彼らはわたしの高校から見える道を走り過ぎて行く。外に出て歩けば、その可能性は上がるだろうが、なんだか追っかけをしているような気分になるので嫌だ。 ノートを開いて、今日の古典の時間を思い出す。黒板にカツカツと鳴るチョークはわたしの知らない言葉を刻んでいた。昔の言葉を学ぶことは嫌いではないが、今と意味が異なってくるものが多い。今の意味では通用しないのだ。例えば、今日習ったばかりの『かなし』という言葉。これは悲しいと直訳してはいけないらしい。可愛らしい、愛しい、そんな意味があるそうだ。漢字で表記すると、『愛し』。どうして、昔の人はこの言葉を『いとし』と読まなかったのだろう。相手に恋をしていて、愛しく思っているという意味なのに。古語が難しいというよりも、言葉自体がいつの時代も難しいものだと改めて思う。ちょっとした言葉のすれ違いで、伝えることができなかったり、人間関係が拗れたりするのだから。 現に、わたしだって水樹への思いを言葉にするのは難しいことであるし、怖くて仕方ない。片想いの前に立ちはだかる幼馴染の壁はあまりにも大きすぎる。切なくて、苦しくて。恋をすることがこんなにも、胸の痛むことだったなんて。もしかしたら、昔の人はそんな意味も含めて『かなし』という言葉を作り出したのかもしれない。課題のプリントから目を離し、窓の外をじっと見る。電信柱に止まったカラスたちが、羽をばたつかせながら大きな鳴き声を上げる。肘をついて、夕日をじっと見つめた。 「お待たせしました」 「全然待っていないよ」 ウブであることを装っているかのようで、ラブレターの差出人はおとなしかった。正体は既に暴かれているも同然なのに、妙な奴だ。わたしが知らないとでも思っているのなら、なめられたものである。みんな、奴の上手い口車に乗せられて、落とされてしまったのだろうか。あいにく、わたしはそんな簡単で単純な女ではない。サッカーをするあの背中を追いかけていくこと、幼馴染としてそばにいること、両方が許されている今は、どんなに頭が良くても、どんなに性格が良くても、どんなに顔が良くても、わたしの心を全部持っていったのは水樹寿人ただひとりなのだ。脇目もふらずに今までやってきたのだから、決着がつくまでは、これからもそうであることを決心している。水樹が、わたしから離れてしまうまでは。 「単刀直入に言います」 「え?」 「わたしはあなたと付き合うつもりは一切ありません」 「ま、待ってよ、オレ、まだ何も」 「無理です。さようなら」 はっきりと言い放ったわたしの表情は随分と勇ましく、姿勢は強気なものだっただろう。とにかく、水樹以外は今考えるなんて無理な話なのだ。わたしにとっては、あの幼馴染がずっと一番なのだから。くるりと背を向ければ、公園の入り口で立ち止まっている男の人がじっとこちらを向いていることに気づいた。もしかして、想いを打ち砕かれた場合は強行突破でわたしを雁字搦めにでもしたいのだろうか。わたしが見ていると、その人は確実にじりじりと距離を詰めてきていた。公園に設置された街灯がバチバチと音を立てる。整備が行き届いていない街灯は、点いたり消えたりを繰り返す。その時、わたしの肩に何かが触れる。力の入ったそれは若干痛い。もう一度振り返ってみれば、捨てられた子犬のような瞳を浮かべている。犬だったら可愛いけれど、興味の持てない男がすると背筋が凍る程だった。 「なあ、オレ、まだ何も言ってないってば」 「……しつこい」 仲間が現れたから強気に出たのだろうか。ひとりでは無理でも、仲間が増えたら大丈夫だと思っているのだろうか。軟な女ではないことを証明するには、実力行使しかないかもしれないと思い始めた頃に、先程近づいて来ていたであろう男の声がする。当然、奴の友だちだろうから知らない声だと思っていた。しかし、この声をわたしが知らないわけがない。わたしの足にボールが、トンと当たる。 「名前?」 「水樹はいつも突然現れるね。だんだん恐ろしくなってきたわ……」 「うん?通りかかったら、名前がいただけ」 「水樹って、あの聖蹟高校の」 「そうよ」 「ちっ、ふざけんな、お前を選んだことが失敗だった!」 本性をやっと現した奴は捨て台詞を吐いて、わたしを小突いた。水樹の声がして、緊張が解れていたわたしの身体はいとも簡単に倒れる。ちょうど公園のコンクリートだったところに尻餅をつく。なんて理不尽なのだろう。向こうから呼び出しておいて、逆ギレされるなんて。頭に血が上りそうだったけれど、こんなくだらないことで怒る労力の方がもったない。はあ、と溜め息をつきながら走り去っていく奴を目で追う。今度、学校で会ったら存分に睨んでやろう。 「名前、大丈夫か」 「うん。ちょっとびっくりしただけ」 「今の、知り合い?」 「噂でしか彼のことをよく知らない。話したのは今が初めて」 「そうか」 伸びてきた手があまりにも自然で、わたしは何も考えることなく、その手を借りた。立ち上がった後で、水樹の顔を見ながら手に触れてしまったことを後悔する羽目になる。水樹はいつも優しい。そう、きっと誰にでも優しい。わたしの身体が当たって、転がっていったサッカーボールを取りに行こうとすると、水樹が急に腕を掴むものだから、その場から足が動かせなくなってしまった。 「何を、言われた?」 「水樹には関係ないよ」 「なんで」 「だって、学校も違うし、こんな恋愛のゴタゴタに巻き込みたくないから」 「うーん」 「水樹が悩むことなんてないよ。水樹はサッカーのことを考えていて」 噴水の音だけがわたしたちを包むように聞こえてくる。遠くに転がっていったサッカーボールも途中の砂場に吸い込まれるようにして、動きを封じられてしまっていた。公園の外に転がっていかなくて本当に良かったなんて、考えている場合ではなかったけれど、わたしのことを離してくれない彼から意識を逸らそうと必死で。水樹にはわたしのことを考えて欲しくはない。サッカーのことだけを考えて欲しいのだ。そうすれば、水樹はサッカーに打ち込めるし、わたしが無駄に期待を抱くこともなくなる。早く、熱が篭るその手を離して欲しい。 「俺は、名前はずっと一緒にいる」 「……水樹?」 「名前、俺のこと、また昔のように呼んで」 「ねえ、水樹、すごいこと言ってるの分かってる?」 もう、わたしは水樹の手を振り切ることなんてできなかった。水樹は反対の手で、わたしの前髪を弄ぶ。きっと彼なりに、整えようとしてくれているのだろうけれど、いつまで経っても整うことはない。昔から水樹はわたしの髪を整えることは下手だ。前髪から下りてきた、大きな手はわたしの頬へ触れる。自分で触っていないけれど、絶対に熱いはずだ。水樹のあったかい手をもっと熱くしてしまうに違いない。 水樹を幾ら遠ざけたつもりでも、彼はいとも簡単にわたしのそばで笑っている。本当に素直になれない自分が嫌だ。水樹はいつもいつも繕ったわたしを紐解いていくように、さらけ出させる。もちろん、水樹はいつだってサッカーが一番でいて欲しいけれど、わたしのことを少しでも考えてくれたのなら、これほど嬉しいことはない。離れることはなく、そばにいるだけでいいのだ。わたしは昔から、それを望んできたのだから。サッカーをする水樹をそばで見ていられるような、そんな存在でありたい。つまり、わたしは水樹のことがずっと。 「そうか?俺は名前に名前で呼んで欲しいだけだ」 「……寿人くん」 「うん」 「寿人くん!」 「うん」 「寿人くん、わたし、あなたのことがずっとすきなの!」 「うん。いつまでも、どこまでも連れて行く。だから、そばに」 「うん!」 |