空が赤色だから
彼女が頷いてくれた日を今でもよく覚えている。随分長い時間、告白のタイミングと言葉を悩み続けて、一人でソワソワしていた。スガや旭が相談に乗ってくれていたけれど、告白をする時はもちろん一人。親友たちがどんなに支えてくれていたって、最終的に勝負をするのは俺ひとりである。好きになってから告白すると決めた日まで、控え目に話しかけてみたり、自然に近くにいたりと不器用ながら努力はした。地味な努力は嫌いじゃないし、むしろ自分に合っていると思っている。努力の積み重ねは実を結ぶ。神様は俺を見てくれていると信じて、告白の日までひたすらに彼女とのコミュニケーションを図った。主将としてチームを纏め、試合に臨む時とはまた違う緊張が走る。彼女に変に思われていないか、うっとおしいと思われていないか。不安で押し潰されそうにもなる。自分が彼女の目にどんな風に映っているのか。告白した後に気づいたが、友だち伝いで情報を仕入れたらよかった。でも、結果はきっと同じものだろう。だから、もう細かいことを気にすることはないのだ。
彼女の家の近くの公園で心もとない街灯に照らされながら、必死に言葉を紡ごうと口を開いては閉じる。彼女のどういう部分に惹かれたのか。魅力を感じた所はどこなのか。約束の時間までに幾つも言葉を用意してきたはずなのに、彼女と目が合った瞬間に全てが頭の中から消え去ってしまった。学校では見ることのできない私服に身を包んだ彼女は、澤村くんと俺を呼ぶ。きっと、今から俺が告白をするだなんて微塵も思っていないに違いない。ガチガチに緊張している俺とは違って、彼女は学校と何ら変わりのない様子なのだ。余裕がない姿は本当に格好悪い。でも、なりふり構っていられない。震える自分自身の手をグッと握り締めて、名前を呼ばれた時から合わせることができずにいる、彼女の目を見つめる。身体の奥から熱が込み上げてきて、心臓が手で掴まれたようにギュッとなる。口を開くための勇気はどうやら自分の中にちゃんとあったようで、言おうと思っていたことの根本にある言葉だけを彼女に投げかけた。一瞬驚いたような表情を浮かべた彼女だったが、すぐにいつもの柔らかな笑みで頷いたのである。お願いします、澤村くん。そう言った。
昨日のことのように思い出せるけれど、彼女との想い出の中でひとつだけずっと引っ掛かっていることがあるのもまた事実だった。俺は告白の時にも、ふとした瞬間にも彼女に向かって好きだと言ったことがある。その時、彼女は俺のすきな顔を見せてありがとうと呟くのだ。でも、彼女から言葉を聞いたことはない。手を繋いだり、身体を抱き合ったりしたことは、ある。キス、はまだないけど。でもその前に聞いておきたいことがあるのだ。彼女の口から、すき、というたった一言だけが欲しい。告白に応えてくれたということは同じ気持ちだと思っていいのだとは思うけれど、それでも彼女の口から直接聞きたいのだ。そうじゃないと、本当に俺のことをすきなのかと疑ってしまう自分がいる。本当に彼氏として彼女のそばにいてやれているのかどうか、不安に襲われてしまうのだ。
告白した時間はこのくらいだっただろうか。近くにあった時計を見ながら、家への道を歩く。明日の練習はどうしようか、学校の予習はどこだっけか、夕飯はなんだろうか、頭の中でごちゃごちゃにかき混ぜられたものを一気に吹っ飛ばしたのは、俺の行く道の先を歩いて行く後ろ姿だった。考えるより先に足が動き出す。間違いなく、あの後ろ姿は彼女だ。遠回しになんて聞けやしない。はぐらかされてしまうかもしれないし、もしかしたら問いたいことを彼女が察してくれないかもしれない。そう考えたら、直球勝負するしかない。あの日の、告白のように。走り出した足は彼女の元に一直線。風が冷たい。大量の荷物が詰め込まれた鞄が揺れて、自分の身体に当たる。
「名前!」
直前で鞄を放り投げる。アスファルトの上に叩きつけられた鞄が形をふにゃりと変えても、見向きもせずに、彼女が振り返るのを待った。澤村くん、そう言って彼女は振り返る。いつも、彼女は俺の名前を呼んでくれるけれど、もうそろそろ下の名前で呼んでくれてもいいんじゃないのか、なんて。ほう、と小さく息を吐いた彼女の小さな肩をぐっと抱き寄せる。指折り数える程しか、こうやって彼女を抱きしめたことはないけれど、今日はまた感触が違うように思えた。切羽詰まった自分がここにいることを痛感する。突然のことに驚いた彼女はしばらく身体を震わせていたけれど、やがておとなしくなった。ふと、自分のくちびるが彼女の柔らかい耳朶に触れていることに気づく。勢いだけで抱きしめてしまったものの、これから何を言えばいいのか。これじゃあ、告白のときからひとつも成長していない。高鳴る心臓と落ち着かない自分を鎮ませるために息を吐いてみれば、その息が少しかかったのか彼女が一際高い声を上げる。決して大きな声ではなかったけれど、俺にはしっかりと聞こえていた。
「名前」
「さ、わむらくん?」
「すき、って言って……」
自分の不安を消したくて。彼女から、きちんとその言葉を貰いたくて。その一心で口にした言葉は彼女の身体を強ばらせたようだった。腕の中で固まってしまっているのが分かる。好きかどうか考えているのだろうか、それとも単に恥ずかしくて言えないでいるのか。それは彼女にしか分からないことではあるが、俺としては後者の方が嬉しいに決まっている。好きなのかどうか迷いを生んでいるのだったら、少し悲しいものだ。交互に息を吐く音だけが、たまにしか車の通ることのない道に響く。きっと、息の音だけではなくて、心臓の鼓動も聞こえてしまっているだろう。
「あのね」
「うん」
「大地くん」
呼んでくれたらいいな、なんて思っていたことが現実に起こって思考がほんの少し止まった。彼女にお願いしたことなどは一度たりともない。自分の心の中だけに留めていた欲なのだ。ごくり、と喉を鳴らした俺と、息を深く吐き出す彼女。抱き合ったままの状態を誰かに見られるのは非常に拙いことであるし、ここは公共の場だ。あまりよろしくないことであることは重々承知の上である。でも、今は離せない。彼女が、言うまでは。時間がかかっても今日は引き下がらないと決めていたけれど、案外その時はあっさりとやってきたもので。
「すき」
「……本当にか」
「うん。今まで言えなくてごめんね」
空気からなんとなく読み取ってはいたけれど、やっぱりいざとなると恥ずかしくて。でも、今日、大地くんがそんな顔するから言わなきゃ、って思ったの。腕の中で言葉が紡がれる度に、熱い息がかかっているような気がした。そうして、ゆっくりと回された手が俺の背中を遠慮がちに撫でる。まるで大丈夫だよと言われているようだった。しばらく、彼女の撫でる優しい手つきに意識を奪われていたけれど、やがて身体が離される。こういうことはムードを作った上で、二人っきりの密室でするものではないのか。でも、今の俺たちには不安を取り除くことこそが最優先のことだと思うのだ。口元を緩ませた彼女の小さな手を引いて、道を歩き出す。地面に乱暴に落とした重たい鞄も、なんだか軽く思えた。