瞬間運命
*女の子≠プロデューサー
天ヶ瀬冬馬は時間が止まったような感覚に囚われていた。普段の男所帯では決して匂うことのない香りが鼻を擽るのだ。彼の周りに香水を好んで使う人間がいないわけではないが、いくつも知っているはずのどの匂いにも当てはまらない。果物の香り、石鹸の香り、花々の香り、既知の香りでは形容し難いものだった。まるで、自分の知識や経験の通用しない世界へと放り込まれたようだ。呼吸をすれば、否応なしにその香りは自分の体内へと侵入し、天ヶ瀬の中の男を揺るがしていく。身体中に染み込む気がした。天ヶ瀬はすぐに息を吐き出す。だが、その香りは彼の身体を既に蝕んでおり、甘い呪縛から解き放たれることを良しとしなかった。頭で物事を判断すること自体が不可能になってきた天ヶ瀬は、現在の状態の把握だけでも、と目を開ける。開いた瞳には、真っ暗な視界だけが広がる。目を開くだけでも、何かに邪魔をされているようだった。相変わらずの甘ったるい香りは、身体の動きさえも鈍くしていく。天ヶ瀬の耳に、自分ではない人間の吐息の音が届く。切なげなそれは、男のものでないことくらいすぐに彼にも分かった。幾つもの芝居を経験した際に、異性の息遣いを間近に感じたこともあるのだ。吐息は間違いなく、女のものであることを天ヶ瀬は察した。徐々に戻ってくる手先の感覚に、指先をゆっくりと動かす。漏れる吐息が艶かしいもので、彼は思わずその指を止める。弾力のある何かは、どこか手に馴染むようだった。柔らかいけれど、しっかりした形を保っている、そう彼は直感していた。
天ヶ瀬は、ある女を頭の中で浮かべながら自身の膝を折って、倒れていた身体を起こす。その女は、彼と同じくアイドルをしており、つい最近も顔を合わせたばかりだった。御手洗や伊集院が、天ヶ瀬をからかったのもその時で、好意を持っているのではないかと二人に詰め寄られていた。部屋の暑さからではない真っ赤な頬は、口で否定の言葉を吐いていても説得力に欠けた。天ヶ瀬は、その女のことを本当に好いていたのだ。遠くにいても、自然と目で追っていることは御手洗に教えられ、話しているときに片想いを隠せてないことは伊集院に教えられていた。
身体を起こした天ヶ瀬は、自身の手の先を見て、慌てて手を挙げた。羞恥に染まった表情を浮かべた苗字は天ヶ瀬に押し倒されたような形だった。そこで漸く、天ヶ瀬の中の時間が進み出す。雑誌のインタビューを終えた二人は、控え室に飲み物があることをマネージャーから聞き、この部屋へと向かった。部屋に入って、テーブルの上に置かれた飲み物を取ろうとしたとき、苗字が絨毯の端に躓いたのだった。それを見た天ヶ瀬が庇おうとして、二人して倒れ込んだことを思い出す。まるでドラマのワンシーンのように彼女を守ったのは良かったのだが、なんとも言えない体制になっていたのだ。雑誌のインタビューの際には、写真撮影もあったため、可愛らしい洋服を身に付けた苗字と格好良いきちんとした洋服を身に付けた天ヶ瀬は傍から見れば、カップルのようだった。捲れ上がったスカートは天ヶ瀬には目の毒で、白い腿から思わず目を逸らす。自身の腿に彼の目が一瞬釘付けになっていることを気づいた苗字は、スカートの裾を急いで引っ張る。それがまた、なんとも扇情的で天ヶ瀬は生唾を飲み込む。どこを見ていいのか分からないのは、彼女も一緒のようで、静かな空間で互いに目を泳がせる。会話できる自信さえ、なかった。天ヶ瀬が悪いわけではないが、男の手に触れられたことのない苗字は自然と涙が浮かんできていた。ぐすっ、と鼻を啜るとその音に気づいた天ヶ瀬が赤い顔をしたまま彼女を見やる。その表情にギョッとした天ヶ瀬だったが、泣いている女を前にしてどのような対応をすることが正解なのかなど彼には分からない。指を伸ばしては、また折る。それを数回繰り返したあと、天ヶ瀬は危険だと知らせる自分の心臓の音を聞きながら、彼女の腰へと手を伸ばす。苗字は完全に身体から力が抜けてしまっていて、自力で起き上がることもできずにいたのだ。抵抗することもなく、天ヶ瀬に身体を預けた苗字はとても愛しく彼の目に映り、どこかの国の姫と思わせるようだった。至近距離で目を合わせるふたりの間には、依然として会話はない。腰から手を離すタイミングをすっかり失った天ヶ瀬は、石のように固まって動かない。苗字は、そんな彼の服の裾を引っ張って、前のめりになるように身体を動かした。足に力は入らなかったが、他の部分は少しずつ動かせるようになってきていたのだ。はじめて、異性の手に触られたのは故意的ではないことをよく彼女は分かっていた。自分を助けるために天ヶ瀬が身体を張ったことも、理解していた。
リップ音が響く。濡れた瞳をした苗字が、天ヶ瀬の頬に口づけたのだった。誘惑するわけでもなく、言葉にできない感謝を伝えるために取った手段がそれであったのだ。彼の頬から伝わる熱は、全身の血と一緒に巡っていく。触れた胸の感触や、柔らかい腕、彼女の香りを天ヶ瀬は一気に思い出す。優しく細められた彼の瞳を知るのは、苗字だけだった。天ヶ瀬冬馬の時間はまた、止まる。
Title:誰そ彼