世界にひとさじの奇跡を加えて


*女の子≠プロデューサー



春といっても、まだ若干肌寒い。昨日は夏の気温かと思うくらい暑かったというのに、夜のうちに大雨が降って、今朝はひんやりしていた。昼間は気温が上がるだろうと勝手に予想していたものの、わたしの予想ほど気温は上がらず、今日の服装では寒いと感じている。行き交う人々を目で追いながら、近くのお店で買ったドーナツをかじる。この前、夜のバラエティー番組で315プロダクションのアイドルがドーナツの宣伝をしていたこともあり、お店は大繁盛していた。おかげで購入するまでに相当な時間を要したけれども、わたしの次の予定までは時間がかなりある。昨夜、時間の潰し方を考えていたときに、きっと暖かいだろうから外でひなたぼっこでもすればいいやという結論に辿りついた自分に言ってやりたい。ひなたぼっこをするつもりなら服装をもう少し考えろ、と。
いちご味のドーナツは春らしい色を纏っている。桜に近い薄ピンクのそれは、どの季節も食べることができるけれど、春という季節が一番似合う。そういえば、花見も今年はまだしていない。桜の開花が遅れていることも、ドーナツと同じようにあの事務所のアイドルがやっていた気がする。ドーナツの宣伝は高校生アイドルで、桜の開花予報は元お花屋さんのアイドル。最近はあの事務所が波に乗っていると専ら話題だった。



「お嬢さん」
「はい?」
「少し寒くはないかい」
「……そうなんですよね。何か羽織りものを持ってくるべきでした」



ちょうど考えていたことについて話を振られたものだから、思わず言葉を返す。見ず知らずの人と会話を交わしてしまった、と思って横を向けば、わたしと同じベンチに腰掛けていた細身の男の人がにっこりと笑っていた。金髪の綺麗な長い髪はどこか外国を思わせるようで、異国の地にでも足を踏み入れたような感覚に襲われる。お嬢さん、と再度呼び掛けられて、周りを確認したけれど、やはりお嬢さんというのはわたしに向かって言っているので間違いないらしい。あいにく、わたしはお嬢さんという響きにそぐわないような女なのだけれど。
男の人はゆっくりと身体をわたしの方へ寄せてきて、背中に何かを掛けてくれた。無駄のない仕草に目を奪われていたわたしは、その人から距離を取ることさえ忘れていた。知らない人に不用心に近づいちゃダメ。知らない人が近づいてきたら距離を置くこと。時には逃げることだって大切。そう教わってきたはずなのに、わたしは不思議と、この人に不快感を覚えなかった。見た目は確かに人間のようだけれど、実はお伽噺や伝説に登場するような存在ではないのか。そんな感覚に包まれている。



「女性が身体を冷やすのはよくないよ。気をつけて」



独特な間合いで話す彼の顔をもう一度まじまじと見つめる。どこかで見たことがあるのは、わたしが大好きな冒険ファンタジー小説の登場人物で似た人を見たからであろうか。それとも有名人で、何かのメディアで目にしたことがあるからか。優しげな瞳を浮かべたままの彼をじっと見ても、答えは一向に浮かんでこない。しまいには夢の中で出会った人かしら、なんて思い出す。そこでようやく、彼にお礼を、と脳が指令を出す。記憶から探ることに必死だったわたしは、勢いよく頭を下げた。



「あ、あのっ、ありがとうございました!」
「ふふっ」



お礼を言うと笑い声が降ってくる。これもまた、高尚な笑い方でわたしの知らない国の王家の血を引いているのではないか、なんて勝手に想像を膨らませる。彼の頭に冠があっても違和感がない。むしろ、大きな城の窓から民を見下ろしつつ、和やかな雰囲気を出しながら、手を遠慮がちに振っているようなイメージだ。とても、しっくりくる。一体、彼は何者なのか。ピアノも弾けそう、とわたしの脳内で彼の像が飛び交う。
ベンチに腰掛けた彼は手荷物ひとつ持っていない。ただ、瞳を閉じて何かに集中しているようだった。時折動くのは、彼のくちびるだ。何かメロディーを刻んでいるような、そんな口の動きに見える。音楽に携わっている人なのかな。それだったら、さっき想像したピアノは当たっているかもしれない。
瞳を閉じるという行為は自分の視界をシャットアウトしてしまうため、視覚による情報というのは全く入ってこなくなる。となると、視覚以外の情報に集中する。彼と同じように自分も目を閉じてみれば、人々の話し声、動物の鳴き声、自然の音、様々な音だけが耳から入ってくる。そうか、彼はきっと音を聴いているのだ。瞼を持ち上げると、色も識別できなかった世界が一瞬で色鮮やかな世界に染まり上がる。その視界には男の人ももちろんいて、先程と変わらない状態で瞳を閉じているのが分かった。彼の邪魔をしてはいけないな、と思いながら羽織り物の端を人差し指と親指で摘まむ。今日は肌寒い空の下に似合わない格好をしてきて最悪だと気分は駄々下がりだったけれど、そんなことが気にならないくらいには彼との出会いは大きかった。最後に名前を尋ねてみよう、なんて思った。



「都築さん!探しましたよ」
「麗さん。どうかしたかい」
「撮影現場から急にいなくなったのでびっくりしましたよ……もうすぐ再開する時間になるので、一緒に戻りましょう」



都築さんと呼ばれた男の人。その都築さんに麗さんと呼ばれた男の子。ようやく、彼が何者であるかに気づいた。彼は、王族でも伝説の存在でもない。音楽を届けるアイドルだ。そして今、パタパタと走って来たのは彼と同じユニットの神楽麗くんに間違いない。都築さんが音に耳を傾けていたことにも納得がいく。
ということは、暇を潰そうとしていたわたしは思わぬ形であの有名アイドルとベンチを一緒にし、会話をし、時間を過ごしてしまったのだ。更には羽織り物まで借りてしまって。立ち上がって麗くんと一緒に歩き出した都築さんを名前で呼ぶ。声を掛けると、彼は振り向いた後にくちびるに人差し指をくっつける。その隣では麗くんが小さくお辞儀をしていた。わたしは彼らに聞こえるくらいの音量で、言葉を続ける。



「あの、羽織り物は」
「お嬢さんのものだよ」
「えっ、そんな、悪いです……!」
「じゃあ、代わりにお嬢さんの音、聴かせてくれるかい?」
「音……?」
「すみません、名前を教えていただけますか」



都築さんと麗くんがわたしの元へ戻ってくる。忙しい時間をわたしに割いてもらうのも気が引けるので、すぐに羽織り物を返そうとしていたのに、彼はわたしの音を聴かせて欲しいと言った。都築さんの言葉を飲み込めていなかった様子が麗くんに伝わっていたようで、彼の言っている音というのは名前であることを教えてくれた。羽織り物のお礼が、わたしの名前。



「名前って、いいます」
「いい、音だね」
「……都築さん、時間が」
「そうだね。じゃあ、名前さん、またどこかで」



都築さんに紡がれるわたしの名前は、本当に自分の名前かと疑ってしまうくらいには甘美な音を奏でているように聞こえた。アイドルに直接名前を呼んでもらえる機会など、そうそうない。今夜は眠れないかもしれない、なんて思いながら羽織り物を畳んで腕に抱えると、二人の後ろ姿を見送る。これからまた、たくさんの音楽を奏でていくであろう二人を。



Title:誰そ彼
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