歌に生き、恋に生き


*女の子≠プロデューサー



扉を開けるための鍵を二つ、同じものを作った。一つはわたしの常備用で鞄の奥底に、あるアイドルグループのグッズのキーホルダーが括り付けられて、しまわれている。そうしてもう一つは、星が煌めき輝くようなアイドルグループとなったDRAMATIC STARSのメンバーである、桜庭薫が手に持っているのだ。あの桜庭薫が合鍵を持っていると、雑誌に取り上げられたらどうしようと一人で大騒ぎしたこともあったが、彼はわたしに一喝するだけである。うるさい、と一言。
医者という仕事から、アイドルの仕事へと一変した桜庭くんは、今では余裕のある仕事ぶりだけれど、最初の頃は家でもダンスの練習やら台詞の読み合わせなど深夜まで続けていた。帰宅してから、リビングでやっていることは今でもあるのだけれど、時間と仕事に追われているような感じはない。あの頃はいつ身体を壊すのではないかとヒヤヒヤしたけれど、心配になって声をかけたところで桜庭くんは、君は気にするなとしか言わない。言い合いになることを避けたかったわたしは、練習が始まった時点で声をかけることは止めていた。せっかく、一緒の家にいるというのに、テリトリーに入るなとばかりに睨まれ、線引きをされていた時はベッドの中でたくさん愚痴を零したものである。桜庭くん、仕事ばかりで構ってくれない。桜庭くん、わたしがいることを分かっているのかな。桜庭くんは、本当にわたしのことをすきなのかな。中高生でも我慢をできる女の子はたくさんいるというのに、彼が世間で有名になっていく度にわたしは置いていかれているような気がして、毎晩毛布に包まっては、その小さな空間の中で叫んでいた。リビングにいる桜庭くんには決して、聞こえないように。しかし、こんな風に文句を並べても、わたしは頭の中で分かっていたのである。今がアイドルの一歩として、一番大切な時期だということ。毛布の中での叫びは言いたいけれど、絶対言わない。そう決めたのは、頑張っている姿を傍で見ていた上に、彼の仕事ぶりにも毎日の積み重ねが反映されていたからである。
開錠された音と共に、ただいま、という声が聞こえる。わたしのいるところにギリギリ聞こえるくらいの音量だけれど、しっかり耳に届いていた。おかえり、と言いながらテレビのチャンネルを変えると、天道くんと柏木くんが大画面に飛び込んできたので、きゃっ、と一人で黄色い歓声を上げる。リビングに入ってきた桜庭くんは、テレビに釘付けにされたわたしの姿を見て、盛大な溜め息をつく。今はまだ、天道くんと柏木くんが前に出過ぎていて、後ろに隠れた桜庭くんは頭だけしか見えていない。二人のキラキラした瞳は星が零れそうなくらいだった。天道くんはきっと大人の余裕でぐいぐいとリードしてくれそうだし、柏木くんは可愛さでこちらのペースを乱してきそう。どちらもわたしには魅力的に映っていた。テレビの向こうのアイドルは所詮、手の届かない憧れの存在なのだから、わたしのように勝手に想像するファンは後を絶たないだろう。柏木くんのウィンクに、きゃー、と声を上げるわたしの後ろで、桜庭くんはスーツを脱ぎ始めたらしく、布の擦れる音がした。シャツのボタンを外すような音も。几帳面な彼のことなので、ハンガーに掛けるようにいちいち言わなくてもいい。むしろ、言われるのはわたしの方だった。桜庭くんは、いつも帰ってきてから服を着替える。皺にならないようにするためらしい。わたしだったら、もう着替えるのも面倒なのでそのままご飯を食べてしまいそうだけれど、桜庭くんがそうしているので、いつの間にか同じように着替えるようにした。
未だに分けられている桜庭くんの部屋と、わたしの部屋。わたしは、必ず自分の部屋で着替えるようにしている。桜庭くんはわたしの目の前で着替えるのは平気らしいけれど、こちら側としては恥ずかしいので、せめて視界に入らないようにお願いしますと言っている。天道くんがテレビの向こう側からファンに挨拶をする。投げキッスをしたのを見て、ひゃっ、と言葉にならない声がわたしの口から零れるのも三回目になった。桜庭くんはもう、着替え終わっただろうか。柏木くんの挨拶に、天道くんの挨拶まで終わったので、きっと次は桜庭くんの順番だろう。そう思ったわたしはソファーから身を乗り出すように振り返る。
桜庭くんといえば、眼鏡のイメージがとても強い。彼は眼鏡を外した顔を頑なに見せてくれないのだけれど、今日のわたしは運が良かったみたい。いつもの眼鏡はテーブルに置かれたままで、わたしと目が合った桜庭くんは目を細めた。すると、すぐに顔を手で隠してしまうものだから、じっくり見ることはできない。レアな彼だと思って、近くに置いていた携帯を掴むと、急いでカメラモードを起動させる。少しお待ちください、の画面に向かって、効果がないのは分かっているけれど急いでと呼びかける。もどかしくて仕方ない。早くしないと、貴重な桜庭くんに逃げられちゃう。



「……つまらないことをするな」



携帯はテレビに向けて起動させていたので、準備ができたカメラモードが最初に映し出したのは眼鏡をかけている桜庭くんだった。わたしが撮りたいのは、今そこにいる眼鏡をしていない桜庭くん。けれども、それは叶うことなく、携帯は彼の手によって奪われてしまう。素早い桜庭くんは携帯を片手に取ると、もう一方の空いている手でテーブルの上にあった眼鏡を手繰り寄せ、身に付けてしまうのだった。



「眼鏡のない僕が見たいのならば、風呂上がりにでも襲うんだな」
「なっ、なに言ってるの、桜庭くん!」
「君には無理だから言っているんだ」



眼鏡をくいっと持ち上げた桜庭くんは、画面を消してしまった携帯を差し出しながら、わたしを見下ろす。上半身を見ることもできないことを知っているからこその言葉だったのだろう。もし、わたしが本当は肉食系女子だったら、どうするつもりだったのか。まあ、桜庭くんの言う通りで、わたしにはそんな勇気はないけれど。
作戦が失敗に終わったわたしはテレビに向き直すと、桜庭くんの冷静な挨拶を聞く。彼はファンサービスというものが相変わらず苦手らしい。天道くんみたいに投げキッスをする感じでもなければ、柏木くんのようにウィンクをする感じでもない。といって、いつもいつも冷静でいるわけではなかった。ライブの時の桜庭くんの熱さは、全身の熱が込み上げてきて倒れそうなくらいだったのを覚えている。歌を聴くたびに、桜庭くんがこちらを向いてくれるたびに、ファンとしてなのか、一人の女としてなのかは明確ではなかったけれど、わたしの中の何かが込み上げてくるのだった。
息を呑んだのは次の瞬間で、それと同時にテレビの画面が真っ暗になる。隣に座っていた桜庭くんがリモコンを手にしていたので、きっと彼が電源を切ったのだろう。ひゅっ、という空気を呑み込む音が桜庭くんに聞こえたかは分からないけれど、規則正しい呼吸が乱されたのは間違いなく、画面の向こうのアイドル、桜庭薫のせいだった。画面の光が消える前に、桜庭くんは優しく笑いかけたのだから。



「さっ、桜庭くん、今の」
「……遅かったか」
「なんで!切ったの!」
「君には必要ないと思ったからだ」



抗議すると桜庭くんは握りしめたままのリモコンのスイッチをひとつ押した。すると、天道くんがコーナーを進めていく場面に切り替わっている。そわそわして楽しそうな柏木くんに、天道くんがよく分からないことを言った時に桜庭くんが通訳のようなフォローをしていた。



「終わっちゃった……」
「まあ、一瞬だからな」
「いじわる」



音量を少し下げた後、リモコンを手放した桜庭くんの片手は、わたしの頬を捕まえる。お風呂上がりに塗っているクリームの触り心地があまりすきではないと言っている彼は、滅多に触れてこないのに、突然触ってきたものだから思わず、変な声が出る。
頬に触れられた男の人の手に意識を持っていかれていると、一瞬だけ桜庭くんがくちびるをくっつけたのが分かった。その後すぐに、眼鏡は邪魔だな、と聞こえた。かちゃり、と眼鏡がどこかに置かれた音も聞こえている。つまり、彼はまた、眼鏡を外している。しかし、桜庭くんが顔を近づけてきた時に既に目を閉じていたわたしは、また、眼鏡のない彼の顔を見るタイミングを逃した。お酒の匂いがわたしの鼻を擽る。帰ってきた時から今まで気がつかなかったが、桜庭くんはどうやら少しばかり酔っているらしい。キスが嫌いなのかと思うくらい、彼はわたしになかなかしてくれない。別にキスを強請るつもりはないけれど、そりゃ、恋人同士のスキンシップには欠かせないものだと思っているから、して欲しいという気持ちはあった。
それにしても、桜庭くんにしては長い。本日一回目の一秒にも満たないようなキスが彼の中では恒例のはずなのに、二回目のそれはなかなか終わらない。離れそうで離れない。彼のくちびるから時折漏れる息は、わたしのくちびるを通り越してだんだんと身体の中に入り込んできていた。瞑った目に力が入る。心臓が痛いほど、高鳴っている。身体から力が抜けていったのをいいことに、ソファーで桜庭くんがわたしに乗っかるような形になった時、はじめてわたしはきちんと眼鏡を外した彼の顔を見た。鋭い目はどこか柔らかな雰囲気を纏っていて、魅了してしまうような、誘惑的な瞳がこちらを見つめている。頬は上気したようで、赤みが差している。情熱的な桜庭くんを見るのは、ステージ以外で初めてかもしれない。
三回目のキスの時には、ねっとりとした熱っぽい蕩けるものが口の中を蠢く。クーラーを入れているのにも関わらず、全身がすごく熱い。まるで、全速力でどこかを走った後のようだった。呼吸が上手く、できない。こんな感覚に襲われるのは久しぶりで、わたしはもう、何も考えられなかった。眼鏡をしていない彼は、ひどく扇情的でずるい。



「名前、間抜けな面を晒しているぞ」
「……誰のせいかな」
「さあ」
「桜庭くん酔ってるのか、酔ってないのか、わかんないよ。ほんと、いじわるなんだから」
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