グロリオサ・ロスチャイルディアナ


*女の子≠プロデューサー



カランカラン、とベルの音が鳴り響く。携帯を弄っていたわたしはふと顔を上げる。先程まで、やり取りをしていた人がようやくこのお店に到着したのではないかという期待を膨らませ、入り口の方をじっと見つめた。案内をしようとしている店員さんに捕まったままの山下先生がキョロキョロとしているのが分かったので、わたしは先生に気づいてもらえるくらいに小さく手を振る。周りを見ている割には、店員さんと何やら喋っていた。先に入っていると先生には伝えたのに、どうしてそれをすぐに店員さんに伝えないのか。それが謎で仕方なかった。わたしに気づいた先生は、自身の頭の後ろを手で掻きながら店員さんに一礼すると、やっとこちらへ歩いてくる。その姿は、わたしが教育実習の時にお世話になった時と全く変わっていなかった。先生は、わたしが教師になった時には既に教師の仕事を辞めており、驚いたことにアイドルへと変身していたのである。実習の時から、少し変わった印象を受けていたけれど、本当に突拍子もないことをするものだ。でも、今、目が合った先生の表情から、アイドルの仕事に充実感を覚えているように感じる。先生が選んだ道なら、わたしはどんなことであっても応援する。



「名前ちゃん」
「山下先生!お久しぶりです。せっかくわたしが教師になったっていうのに、先生は辞めちゃってアイドルやってるなんて」
「へへ、もう教師じゃないから、先生はよしてね」
「わたしの中ではいつまでも先生ですから」
「実習の時と変わらず真面目だねぇ」



カウンター席に座ったわたしたちは、お互いに少し椅子の向きを変えて、相手の顔が見えるように座り直す。教師という仕事柄、相手と目を合わせることが基本であり、真摯に向き合うことが日常茶飯事だ。同僚、先輩、管理職、そして子ども、保護者。どんな相手でも、いい加減な態度で臨んではならない。山下先生も、相変わらずそうだった。アイドルという仕事も、自分の姿と常に向き合い、応援してくれるファンの人たちのこともずっと考え続ける。そういった面では、教師という仕事と似ているところが多いのかもしれない。誰かに伝えていく、そういった姿勢もそっくりなのだ。
山下先生に連絡を取ったのは、自分の夢を叶えた姿をお世話になった先生に見てもらいたいと思ったからだ。採用の通知を手に、実習校に行ってみれば山下先生は辞めましたよ、なんて言われたものだからひどく落胆したことは記憶に新しい。諦めきれずに、そこの先生方になんとかコンタクトを取れないだろうかと懇願して回ったわたしは、大変迷惑だっただろう。そうしてでも、教師の夢を掴んだわたしは、山下先生にお礼が言いたくて仕方なかったのだ。普段、あまりテレビを見ないわたしはその時、先生がアイドルをしているなんて知らなかったのだけれど。



「先生のおかげで、ここまで来れたので、どうしてもお礼を言いたくて」
「おじさんは何もしてないよ。名前ちゃんが頑張った結果でしょ」
「先生はわたしの夢の途中で支えてくれたじゃないですか」
「……どこまでも真っ直ぐな、ひよっ子先生」



よしよし、と先生の口から優しく温かな言葉が零れる。頭を撫でられて、思わずうっとりとしてしまう。実習の際に、小テストを頑張ったという女の子が同じように撫でられているのを思い出した。今なら、その子の気持ちが分かるような気がする。大きくて、安心するその手にやっぱり、わたしは実習の時から支えられていたのだろう。右も左も分からないわたしにアドバイスをくれた時、山下先生がなんて言ったか、今でも明確に覚えている。山下先生に頼り過ぎて、硲先生には注意されてしまったこともあった。そんな硲先生も山下先生と一緒にアイドルをやっているというものだから、世の中、何が起こるか予想もつかない。



「名前ちゃん」
「はい」
「実はね、俺もいつかお祝いしたいと思ってたんだよ」
「え?」
「短い期間だったけど、俺が手塩にかけて育てたんだ。その後が気にならないわけないでしょ」



先生の言葉に呆然としていると、店員さんが失礼しますと言って、わたしの目の前に小さなケーキを差し出した。わたしはミルクティーを注文しただけで、ケーキなんて頼んでいない。口を開きかけると、先生がわたしに向かって静かにしててねとばかりに合図をする。あの仕草は何度も見たことがある。わたしは瞬時に口を閉じて、遠ざかっていく店員さんの背中を見つめつつ、その姿を見送った後は目の前のケーキに視線を移す。いちごと一緒に、プレートのような物が飾り付けられているが、わたしからだと文字は見えない。すると、先生がそのケーキの向きをくるりと変える。



「名前先生、おめでとう」



先生の言葉と同じ文字がそこに並んでいた。プレートの文字を何度も何度も目で追う。心の中で復唱する。山下先生の言葉を噛みしめる。お礼を伝えるだけの予定だったのに、こんなサプライズがあるなんて。突然の祝いの言葉にわたしの目頭は熱くなって、気づいたら、ぽたりと涙が手の甲に落ちていた。一粒落ちたことを自覚してしまえば、もう止めることはできずに、次から次へと溢れてくる。山下先生はそんなわたしの泣き顔を見ながら、微笑んでいた。教師になった時の喜びに加えて、先生はアイドルになった時の喜びも知っている。夢を叶えた時の気持ちを二度も味わっているのだから、わたしの涙の意味を充分に理解してくれているのだろう。鞄の中から、ハンカチを取り出して涙を拭き取る。涙声ながらに、山下先生ありがとうございます、と声を絞り出すと背中を上下する感触があった。やっぱり、先生を辞めてアイドルをしていても、山下先生は永遠にわたしの先生なのだ。



「わたし、先生にお礼をしたかったのに」
「その笑顔で充分」
「……そんな」
「うーん、じゃあ、おじさんのお願い、ひとつ聞いてくれる?」
「は、はい!なんでもどうぞ!」



落ち着いたところで、わたしはフォークを手に取り、食べやすいように一口サイズに切る。本当は先生に何か用意できれば良かったのだけれど、アイドルとなった先生に何を贈ったらいいのか見当もつかなかったために諦めた。もう、ファンの人たちから色々と貰っているだろう。
ケーキの甘い匂いはわたしの持っているフォークを誘惑する。濃厚なクリームに、わたしの大好きなチョコレートがたっぷりだ。実習の時に、確か山下先生にチョコレートが好物であることを話した記憶がある。それを覚えていてくれたのだろうか。だとしたら、嬉しさも倍増するというもの。友だちから、本当にあんたは甘い物が好きなのねと呆れられるくらいには甘党だった。



「ケーキをひとくち、ちょうだい」
「それだけでいいんですか?」
「あーん、てしてね。おじさん、若い子にしてもらうなんて興奮しちゃうなー」
「先生……」
「冗談」
「結局お願いってなんですか」
「へへ、ケーキひとくちは冗談じゃないよ」
「……え、あ、あーんは?」
「それも冗談じゃないよ」



大きく口を開いた先生はわたしに期待の眼差しを送ってくる。まだ貰った本人が食べていないのに。なんて思うけれど、先生がわたしのことを祝ってくれたことが本当に嬉しくてたまらないので、そんな面倒見の良い先生のお願いを無下にできるはずがないのだ。ひとくちサイズにしたケーキの欠片を、先生の口の中に放り込む。もぐもぐと口を動かす先生は、笑顔だった。この人は教師も似合うけれど、アイドルも似合っている。カップに口を付ける先生は本当に色っぽいというか、大人の魅力を携えていたし、そのフェロモンを辺りに漂わせている。そこで途端に気恥ずかしくなったわたしは、先生から視線を逸らす。わたしは残りのケーキを口に頬張りながら、山下先生に負けずに頑張ろうと自分を奮い立たせるのだった。アイドルである山下次郎という人を応援することも忘れずに。
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