ひそやかに色づく死に
*8主=エイト
*明るい話ではない
これは、僕が城の近衛兵のときの話。トロデーン城は立派に栄えており、活気に溢れる毎日を過ごしていた。そんな、あの頃。
鳴り響く時計の音で目覚めた僕は、顔を洗うために洗面台のある場所へと向かった。起きたばかりの楽な格好であったため、近衛兵としての雰囲気の欠片もない。同僚と挨拶を交わしながら目的の場所に着くと、支度を済ませた。それから、城の食堂に行って、頭をすっきりさせるために柑橘系のジュースを朝から一杯飲みほし、ホワイトシチューを料理人に頼む。
「いつものを頼みます」
「エイトくんかい。いつも早いねえ」
「ええ。僕はしっかりしないといけませんから」
「その言葉、エイトくんの同年代の子たちにも聞かせてやりたいよ」
大盛りホワイトシチューの皿とスプーンが乗せられたトレイが僕の前に差し出される。湯気の上がる様子は出来立てであることを知らせている。感謝の気持ちを伝えて受け取ると、城の料理人たちは僕に対しても労いの言葉をかけてくれた。出身すらはっきりせず、拾われただけの僕に彼らはいつでも優しい。定位置の場所にトレイを置くと、今日の見張り当番が一緒の先輩とちょうど居合わせた。とても優しく、僕にも丁寧に教えてくれた人である。
「よお、エイト」
「先輩おはようございます」
「今日はあのネズミがいないのな」
「……え」
「お前、気づくの遅いぞ」
先輩に言われて気づく。大概、僕が起床した際にトーポが部屋のどこからか駆けつけて来てポケットに潜り込むのだ。当たり前のことになっていて、最近は確認することも疎かにしていた。トーポはまるで僕をいつも見張っているように先に起きている。寝床を作ってやっても、部屋の至る所で眠っていたりするのだ。部屋に置いてきてしまったのだろうか。朝食終わったら門のとこに来いよ、という先輩の声にゆっくりと頷きながら、スプーンでゆっくりとホワイトシチューを口元に運ぶ。大体こういう時は、トーポが羨ましそうにこちらを見ているはずなのだ。なんだか寂しさを感じる。普段通りでないと、こんなにも調子が簡単に狂ってしまうらしい。
一旦部屋に戻ったのはいいが、名前を呼んでも、わざと音を立ててみてもトーポは一向に姿を現さない。ついにこの生活に耐え切れず、まさか家出でもしたのかと考えてはみるけれど、ずっと一緒にいるトーポが突然そんなことをするとは到底思えなかった。仕事のこともあって、あまり時間を割くのは悪いなと思った僕は廊下を駆け足で通り過ぎていく。途中で通りかかった部屋の中からは、姫のピアノの音が聞こえた。その音に焦りを緩和させられた僕は、走ることをやめて歩き出す。大きく聳え立つ城門の前に来ると、先輩は既におり、その手にはチーズを持っていた。先輩の視線の先には、今朝から捜索中だったトーポの姿がある。安心した僕が息を吐き出すと、先輩が笑い出した。
「どこから出てきたんだろうな?まあ、見つかって良かったさ」
「トーポ」
僕がトーポの名を呼ぶと、耳をひくりと動かしたあと一目散に走ってきて、いつもの場所に戻る。ポケットの中は安心だとばかりに、潜り込んでいく。先程大袈裟な表現として家出という言葉を使ったが、僕の部屋から勝手に一匹で出ていくことは幾度かあった。ただ、外に出て行くことは今回が初めてだった。わりとすぐに見つかったので、少し驚いたもののそんなに気に留めることはなかったけれど。
太陽が昇って、だんだんと気温が上がってくる。この城の周りは緑が多い素敵な場所で、森を抜けてみれば、海を一望することも出来るのだ。周辺の警備を先輩に任された僕は、少し外回りをすることになっていた。魔物に遭遇したとしても、一人で充分太刀打ちできるレベルなので、そんなに心配はない。暑い日には水浴びでもすれば気持ちいいだろうなあ。なんて思っていると、トーポがポケットで暴れるように動いた。
「……トーポ?」
思わずポケットを軽く押さえながら名前を呼んだ瞬間にトーポが手の合間をすり抜けるようにして飛び出す。走って行く先は海の方角だ。颯爽と森の中へ消えていってしまいそうな姿を見失わないように追いかける。
トーポは休む暇もないとばかりに森を突き抜けていくように駆けて行く。小さな身体が何度も背の高い草に隠されてしまうが、ピンと立っている尻尾を目印にした。むやみやたらに走り回るわけではなく、何かに向かって一直線に走っているように思える。何度、トーポと呼びかけても、足を止めることはない。そのまましばらく走り続けて、城の近くの砂浜に出た。そこでようやくトーポがぴたりと止まる。
「……はあ、やっと止まってくれた」
けれども僕の方を見ることなく、じっと一点を見つめて身動きひとつしない。変だなと思いながら目を凝らすと、女の人が倒れているのが見えて、急いで駆け寄った。大丈夫ですか、と大きな声を出せば、彼女の身体がその声に反応したのか小さく動く。
倒れていた彼女を抱き起こすと、睫毛が震え、瞳がゆっくりと開かれていく。瞳を開けた彼女に僕は見つめられて、何をすればいいのか、なんと言葉をかけていいのか、分からなくなってしまう。深い青と緑が混ざり合ったような瞳は、まるでこの辺りの森や海の色を閉じ込めたようなものだった。見つめ続けていれば、自分がこの中へと吸い込まれていってしまうのではないかと思わせる。そこでトーポを見れば、僕の視線に気づいたようでポケットへと戻って来た。どうやら、このことを僕に伝えたくて飛び出してきたらしい。
「あの」
「あ、はい」
「助けてくださってありがとうございました」
「僕は特に、何も」
「いいえ、貴方が来てくださっただけで良かったのです。もう体を動かせる程の力もなくて、ここで弱っていくのかなって思っていたのですから」
「僕で良ければ回復を」
「貴方は私を海に投げてくだされば良いのです」
僕は意味の理解に苦しんだ。彼女は自分を海に投げて欲しいと言う。普通の人間はこんなことを言わない。弱っているのに海に入るだなんて、自分の身を滅ぼすことにも等しいとしか思えなかった。理解に苦しむ。でも、彼女はそうして欲しいと願っている。躊躇っているのが伝わったのか、彼女は僕の腕に自分の手をそっと乗せてきた。
「信じて……私の言う通りにしてくださらないでしょうか?」
真剣な目で訴えられては彼女の言う通りにするしかなかった。波がやってくるギリギリのところまで彼女を抱えて歩いて行く。海に近づけば近づくほどに、なんだか彼女の身体が軽くなっているような気がしてならない。ふと、視線を落とせば、抱かれている彼女は嬉しそうな表情をしていた。それは人間味がまるでない。そもそも、海に帰して欲しいと願う時点で普通の人間ではないことは確かだが。
「さあ、思いっきり投げてくださいまし」
「……分かりました」
僕はもう躊躇いを捨てた。まるで自分が夢を見ているような感覚に襲われている。現実と夢の境の区別がつかなくなってしまっているようだった。だが、最終的に辿り着いたのは彼女が望んだままにしてあげようという答えである。
水飛沫が上がり、辺りに大きな音が響く。羽のような軽さで、いとも簡単に遠くへと飛ばすことができた自分に驚いている。まるで、手のひらに乗せた羽にふっと息を吹きかけたような。一瞬、彼女は空を飛んでいるのかと思ったくらいだった。感覚が麻痺してきたようにおかしい。人間でないにせよ、あの軽さは思考の範疇を飛び越えていた。僕は彼女が海に沈んでいった場所をずっと見る。でも、彼女が姿を見せてくれることはなかった。その代わり、水面が打ち寄せてくる波に逆らうような動きを見せていて、不思議な光景を目の当たりにしたことでしばらくその場から離れることができない。
城門に戻ってくると、先輩がえらく時間が掛かったなと言ったので、状況をひとつひとつ丁寧に説明していった。砂浜でトーポがポケットへと戻ってきてくれたことまで話を進めると、急にそういえばと先輩が口を挟む。僕が聞いて欲しいのはこれからなんだけどな、なんて思いながら先輩の声に耳を傾けると、すぐに驚く言葉が飛び出してくる。噂でしかないが、見た奴がいたそうだ。そう、人魚をな。単なる見間違いだろうと笑い飛ばす先輩の前で、僕は一緒に笑うことができなかった。まさか。その言葉に尽きる。彼女の姿、瞳、声を思い出していた。
すっかり姿を変えてしまったトロデーン城を目に入れることは、現実を受け止めることには充分すぎる程に胸が痛い。王が言葉を失うのも分かる。僕たちは、栄えていた城の姿を知っているからだ。一瞬でこんな姿に変えられる程の魔力に、立ち向かうことができるのだろうか。そんな不安は心を曇らせるが、立ち止まってはいられないのだ。
今日の休憩場所として選んだのはトロデーン城の近くにある砂浜だった。ポケットを飛び出したトーポが僕の肩まで上ると、首筋をつんつんと刺激する。じゃれてきているのか、遊んで欲しいのか。トーポの真意は分からないが、意識をそちらに向ければ、トーポは僕の視線を奪ったことに気づいているようで、海の方へと駆けて行く。
「……エイト」
木霊する声に、足を止めた。僕の名前を呼ぶこの主に覚えがあるのだ。昨夜ふと思い出したことに繋がるその声は、海の底から聞こえているような気がする。けれど、僕は人間であり、海へ潜るなんてことはできない。手の届かないところにいる声の持ち主は、姿を現さないまま、延々と僕に語りかけてくる。トーポにも聞こえているようで、小波の寄せてくるギリギリのところで座り込んでいた。
「貴方のこれからにどうか、加護がありますように」
「……あの!」
「この景色が見違える頃、また会えたら嬉しいです」
「あなたは一体」
「……人ならざる者は、人間とは結ばれぬ運命ですから貴方は知らなくて良いのです」
その言葉を聞いた瞬間に肩をポンと叩かれて振り向けば、ヤンガスが首を傾げていた。ああ、やっぱり僕にしか聞こえていない。小さい頃に城で読んだ絵本に描かれていた悲恋の中で聞いたような台詞は、妙に僕の心を鋭い物で刺すようだった。彼女はやはり噂になっていた人魚だったのだろうか。その答えを見つけるためには、まず自分の為すべき事をやり遂げる必要がある。ぐっと拳を握ると、トーポが僕の手に上ってきて、いつの間にか手の上に乗せられていた物に鼻を寄せた。ブレスレットのようなそれは、何も言われなくとも、彼女が僕に授けてくれた物だと直感が働く。何もないよ、とヤンガスに返した後、道具袋に大切にしまう。触ると仄かに温かいそれは、まるで小さな命がそこにあるように思わせた。
Title:ジャベリン