無垢の花が撒かれる
封筒を開いたわたしは大粒の涙を零して、その場に崩れ落ちた。封筒の中身の紙に印刷された機械的な文章ではあったが、はっきりと書かれていた文字はわたしの未来を示していた。毎日追われるように教科書、ノート、参考書、問題集に触った。縋りついた。だけど、今は過ぎ去った日々を懐かしむよりも、ただ、あの人に報告したい。この感動を一緒になって感じてもらいたい。でも、もしあの人が私と違う結果だったらどうしようと一瞬その考えが頭をよぎったが、まさかそんなことはないだろうと思い直す。涙を拭くのも忘れたわたしは、自分の部屋にあった鞄を乱暴に引っつかむと、その通知の紙を手に握りしめて、外に飛び出した。まだ冷えるのに、玄関に放り出されてあったスリッパを履いて駆け出す。どうして鞄を持ってきたのかは自分でも分からない。コートを羽織る方が普通ではないだろうか。でも、もうそんなことすらどうでも良かった。無我夢中に走る。知り合いのおばちゃんがあら、そんなに急いでどこに行くのとわたしに投げかけたけれど、手を振るだけで全力疾走を続けた。女子高生が適当な格好で、しかもスリッパで、寒いのに厚着もしていないとなったら、気になるのも当然だろう。
わたしは気がついたら、自分の家ではない家の扉を無意識の内に開けていた。チャイムも鳴らさない。お邪魔します、の一言も無い。幼なじみの家だからこそ許されるのかもしれない。普段のわたしだったら、絶対にそんな失礼なことはしないが。スリッパを脱ぎ散らかして、廊下を走る。階段を駆け上る。あの人の部屋に飛び込んだ。
「まこちゃん!」
部屋を見回しても、わたしが会いたかった人の姿はそこにはない。丁寧に畳まれた水着と、書類が壁際に寄せられている。ベッドの上にはシャチの大きなぬいぐるみが転がっていた。まこちゃんには可愛すぎると思ったけれど、水族館にデートに行った時にわたしがどうしてもプレゼントしたいと言ったものだから、彼は笑って受け取ってくれた。ぬいぐるみの隣には、まこちゃんのお気に入りの毛布が丸められている。自室にいないとなると、どこにいるのだろうか。引き続き、部屋を探索していると、机の上に既に開封済みの封筒が置かれていることを見つける。切り取られた欠片は捨てられておらず、封筒の口の傍に放置されていた。
慌てて飛んできた先程とは打って変わって、落ち着いて冷静になってきたわたしは、階段を一段ずつ踏みしめながら下りていく。双子がよく遊んでいるリビングにやって来て、部屋の中を確認してみるが、そこにもいない。おばさんたちは仕事だろうから、家にいないと予想済みだけれど。
「どこに行ったんだろ……」
わたしがこんなに急いで来た意味がすっかり色を失ってしまったようで、肩を落とした。真っ先に報告したかったのに。携帯も部屋に置きっぱなしで来てしまったため、誰にも連絡が付かない。せめて携帯を持ってくるべきだった。全ては慌てて走って来た自分に落ち度がある。
「せっかく合格したのについてないなあ」
小さくため息をつくと、手でも洗おうかという考えが生まれたので、洗面所に向かった。相変わらず、家の中はわたしの立てる音だけが虚しく響いていた。時折、カタカタと音がするが、それは外の風のせいだと思う。走ってくる時は一生懸命で全く気にならなかったが、今日はここ最近で一番の寒さだった。風も強く、肌を刺すような痛みだという。それを感じないほどに、合格の報告をしたくて堪らなかったんだなあ。わたしは洗面所のドアノブに手を掛ける。
ゆっくり開いたものの、中には入れなかった。障害物に遮られたようだった。そのまま押し返され、わたしの身体は後ろへと下がる。自然と目線が天井へと移って行く。気づいた時には鈍痛に襲われていた。悲鳴を上げながら豪快に尻餅をついたが、反射的に手で床を押さえたため、身体全てが倒れることはない。廊下の床をちらりと見やったあとに、進行方向へと視線を戻せば、がっしりとした大きな身体がわたしを覆っていることに気づく。陰が落ちたように、暗くなる視界に息を飲んだ。
えっ、ちょっと待って。その言葉は心の中だけに留められることとなる。いつもは下がっている優しい眉が、ぐっと持ち上がっていて、透き通ったエメラルドのような色の二つの瞳がわたしを捉えている。鍵の掛かった禁断の宝石箱を開いて、中身を覗いてしまったようだった。はあ、と悩ましげな吐息は男子高生とは思えない程の色気だ。ドラマの俳優さんたちが、ベッドシーンで演じるものに近い。石のように固まってしまったわたしをよそに、その瞳を少し緩めてニコリと笑う。普段のまこちゃん、と安心したのも束の間のことで、彼はわたしとの距離を詰める。ぐっと押し付けられた身体は、わたしと違って毎日の水泳やらで鍛え上げられている。これに組み敷かれては逃げることも叶わない。唾を飲み込めば、胸にキュッとした痛みが走る。思考の追いつかない頭には、まるで痺れのようなものが襲いかかる。甘美な毒のようなそれは、わたしの頭と唇から徐々に侵食を始める。唇をくっつけたまこちゃんは、うっとりしたような瞳でわたしを見ているものだから、反対にわたしは目を閉じた。ドクドクと全身に忙しなく回る血が沸騰してしまいそうだ。
こんな場所で。と、唇を離した彼に言いたかったが、誰がどの瞬間にやって来るか分からない廊下で真面目な水泳部の元部長と不埒なことをしているわたしも同罪だと思う。唇を伝って、わたしの力を吸われてしまっているようだった。柔らかな舌を食む彼のせいだ。床に倒れてしまいそうになっても、大きな手がわたしの背中を支えてくれて、終わらせないよと言われているように。
わたしのことを簡単に抱き上げた彼は、合格おめでとうと零す。ああ、そうだった。わたしは、まこちゃんのこの言葉が聞きたくて走って来たんだ。彼の激しいスキンシップで忘れてしまいそうになっていたけれど、一番の目的はそれだ。同じ言葉をそのままそっくり返せば、シャチの隣にわたしの身体を下ろすと、まこちゃんはベッドの端に音を立てて腰掛ける。その音が妙に変な雰囲気を醸し出していて、わたしはシャチのぬいぐるみを引き寄せて抱きしめた。
「もう受験終わったよね」
「……う、うん」
「受験終わるまでは恋人らしいことはしないって決めたの、覚えてる?」
「真琴」
「ねえ、名前、覚えてるよね?」
もう、解禁だよ。真琴の人差し指がわたしの唇の端から反対側までなぞっていく。綺麗にリップも塗っていないから、あまり滑らない。それでも真琴は丁寧に指を動かす。そして、自分の唇にその指を持って行ったかと思えば、再度彼のものを押し当ててきた。抱いていたはずのシャチは真琴に回収されてしまって、代わりに彼の身体がするりと滑り込んでくる。大きな身体なのに、わたしの胸元に入り込んでくるのが得意だなんて、本当にずるい人だ。そうされてしまったら、わたしが抵抗するのをやめてしまうことを知っているからこそ。
粘液を纏った舌が真琴の唇の隙間から見え隠れする。聞こえる水音に耳を塞いでしまいたくなるけれど、わたしたちは受験勉強が始まってからずっと我慢してきたのだ。今日くらい、許されるはず。同じ大学に進むといっても、いつも一緒にいるとは限らないのだ。なら、今日はたっぷり真琴に甘やかしてもらうしかない。おずおずと唇の隙間を作ったわたしは、真琴の横腹辺りに手を添える。準備ができたことを知らせる二人だけの合図だ。