おはよう、と言える朝を探してる
*女の子≠プロデューサー
携帯に届いたメールの差出人の名前を見たわたしは、ベランダから月を見上げる。冬の冷たい風は、風呂上がりのわたしの体温を簡単に奪っていくけれど、どうしても今日は月が見たかった。遠くにあって、手で決して掴むことのできない輝きは美しさと共に儚さを運んでくる。ひとりで見る月はこんなにも哀愁を掻き立てる。寂しがり屋だというのは自覚していたけれど、それでも、自分から連絡をしようなんて到底思えなかった。寂しくても、神谷さんは忙しい人だし、今が大切な時期だと分かっているからこそ迷惑になることはできない。テレビで姿を見ることも多くなったし、ラジオから歌が聞こえてくることだって、確実に増えてきていた。わたしはというと、彼が遠くにいても、頑張っている姿を見て、寂しさを必死に紛らわせていた。神谷さんからはわたしの姿も見ることも、声を聞くこともできずにいる。寂しいって少しは思ってくれると嬉しいな。それに、空はどんな場所にいても全ての人に平等に広がっているものだ。だから、風呂上がりにわたしは月を見ていた。神谷さんも見ているかな、なんて。
メールには、自転車でそっちに向かっているからとだけ書いてあった。神谷さんは極度の方向音痴だから、わたしが迎えに行かないときっと迷子になってしまうだろう。自信満々であっても、結局彷徨う羽目になるのが彼だ。今日は迷子になって時間を取られたくはない。ベランダから部屋に入ったわたしは、パジャマの上にコートを羽織る。本当は、私服姿で会って、神谷さんに可愛いねの一言でも貰いたいところだけど、そんな時間も惜しい。簡単な化粧を済ませると、わたしは鍵と財布と携帯だけをポケットに突っ込んで、マフラーをぐるぐる巻いて外へと飛び出した。
小さな星が行く先を照らすようで、わたしが歩く夜道の先は幻想的だった。風は先程より少し勢いが弱まっていた。空は真っ黒に染まっているために一人で歩くには怖かった。雲は月を隠したりと悪戯を仕掛けるようだった。神谷さんと入れ違いになりませんようにと祈りながら、坂道を下っていく。わたしの住んでいるマンションは最後に急な坂道が待ち構えている。仕事帰りにここに住んだことを後悔するのが毎日だった。神谷さんは自転車でこちらに向かっているということだったから、この坂道を自転車で上らせるのは酷なことだ。坂道を下りきったところで、あっ、と声がする。ずっと足元ばかりを見ていたわたしは、その声にはっとして顔を上げる。既に自転車から下りていた彼は、この坂をペダルを漕いで上ろうなんてハナから思っていなかったらしい。
「神谷さん」
「名前ちゃん」
「お仕事、お疲れ様でした」
「急にごめんね」
「いえ。すごく、嬉しいんです」
自転車を近くの壁に寄せた神谷さんは、コートに隠れてしまっているわたしの手を探すように袖の辺りに触れる。隠していたつもりはないのだけど、大きめのコートを買ったら手が隠れてしまっているのだ。小さな笑い声が聞こえてきたと同時に、神谷さんの手がわたしの手を捕まえる。すごく冷たくて、思わず身震いをすれば、彼の手がすぐに遠ざかっていく。会えなかった分の寂しさが積もりに積もっていたわたしは、離れていく神谷さんの手を追いかけて、さっきとは逆に彼の手を捕まえた。わたしの手も冷えてきてはいたけれど、数分前まで暖かい部屋の中にいたこともあって、神谷さんよりは随分温かい。
「……俺の手、冷たいから」
「だから、わたしが温めてあげます!」
勢い任せとばかりに飛び出た言葉に熱を上げたのは、わたしだった。言われた神谷さんは余裕の表情を浮かべているものだから、本当にずるい人だ。今の流れだったら、照れるのは彼の方だというのに。
「名前ちゃんに温めてもらったら、余計、寂しいってなっちゃうかもしれないな」
「え?」
「好きな子に温めてもらうのは、特別だからかな」
「……もう、神谷さんすぐそういうこと言うんだから」
「名前ちゃん、髪が伸びたね……寂しい思いさせて、本当にごめん」
触れていない方の神谷さんの手が、わたしの髪の毛の流れに沿うように指を滑らせる。櫛を通すよりも、よっぽど気持ち良く、安心するその手にうっとりとしていれば、彼が髪の毛からそのまま腰へと手を落としていたことに気づくのが遅れてしまっていた。ここが、真っ暗な空の下で、一人で心細かったことも完全に忘れてしまう。きっと、明日からも神谷さんは忙しい毎日を送るし、わたしは自宅と仕事場の行き来で毎日を過ごすのだろう。でも、こうやって、忙しい合間を縫って会いに来てくれることは何よりも満たされた。同時に、空を見上げる時には隣にいて欲しいというわがままを零してしまいそうにもなるのだけど、それは懸命に抑える。いつか、そうなったらいいなあという願望だけに留めておく。
「明日、晴れるといいな」
「うん。晴れるといいね」
Image song:僕の青い自転車/スキマスイッチ
Title:ジャベリン