一枚越しに重ねた代償
*11主=イレブン
海の向こうを毎日見つめながら、背後で聞こえる咳の音に身体を震わせた。痰の絡んだ鈍い音がわたしの頭と心を蝕んでゆく。ある時は真っ赤な液体が混ざった物を吐き出す。母は、随分長く病を患っている。最近になってその病状が急に悪化したのだ。寝込む母の看病を続ける中で、ごめんねと繰り返す彼女の声が日に日に弱っていくことに耐えられなくなってきている。振り返ると、母は目を瞑っていた。咳をしたことで、せっかくの眠りを妨げられてしまったのかと思ったけれど、咳は静まり、寝息だけが聞こえている。今の間に、街まで買い出しに行ってこよう。傍に置いてあった鞄の紐を引っ張って、扉を開けた。
男の人の声が聞こえてくる。辺境の地に来るなんて珍しい人もいるんだなあと思っていると、魔物と一緒に青髪の人がこちらに向かって駆けて来た。獣の魔物の走る速度の凄まじさはわたしもよく知っているが、その魔物と張り合っている彼は人間かどうか疑う程である。小さなナイフを両手に持った青髪の人が、魔物とわたしの間に立つ。街に買い出しに行く時は、魔物に見つからないコースを歩いて行ったり、道具を使って魔物避けをしているのだけれど、この人はわたしと違って魔物を退治するタイプらしい。青髪の人の後を走って着いてくるもう一人は、サラサラとした髪の毛が特徴的で、長剣を構えている。剣を振りかぶったと思えば、反対の手のひらに小さな火種のような物が現れ、みるみる大きくなっていく。あの呪文はメラミだ。わたしのような戦闘とは縁のない人間にとっては、驚きの連続だった。
「大丈夫か?」
「……は、はい」
数秒のうちに魔物は姿を消してしまった。地面にぺたりと尻餅をついたわたしに、青髪の人が手を伸ばしながら覗き込んでくる。宝石のように透き通った瞳は鋭く刺さるようだった。戦闘中に被ってしまった葉っぱを払うように、顔を振った彼の耳についている金色のピアスが揺れる。
同時にこの人たちなら、母を治すことができるかもしれないという考えが脳裏を過る。けれど、見ず知らずの人を助けるだけでなく、込み入った事情まで聞いてくれる可能性はゼロに等しい。魔物からわたしの命を助けてくれただけでなく、もうひとつ命を救って欲しいだなんて都合が良すぎる。目的があって、こんなところを通りかかっただけだろうし、わたしにこの人たちを引き留めることなんてできない。仮に命を助けてもらったところで、対価になる物など貧しいわたしにはないのだ。
せめてお礼を述べようと口を開いた瞬間、目の前の彼がわたしの腕を引っ張り上げる。それが、いけなかった。久しぶりに触れた人間の温かさ、優しさがわたしの我慢していた感情を一気に壊す。大丈夫そうだな、と口にした彼はわたしの頭にポンポンと手を置く。整えた髪の毛が少しばかり乱れた時、既に視界はぼやけてしまって、青髪の人を再度捉えることは叶わなかった。ぐちゃぐちゃになった視界に、嗚咽だけが響く。
「……ど、どうした!?」
「あー!アンタ、女の子を泣かせるなんて最低ね!」
「はあ!?オレまだ何もして、」
「まだ、ってことはなんかしようとしてたんでしょ!まったくこれだから……」
「イレブンさま、カミュさま、お姉さまと……?」
「ベロニカ落ち着いて」
何もしていないのに、いきなり泣き出したわたしの背中をゆっくりと撫でてくれたのは、綺麗な金髪の女の人だった。ゆったりとした口調で、大丈夫ですよと声を掛けてくれる。その声色はまるでハープを奏でるかのように繊細で心を和らげてくれるようだった。わたしのせいで、青髪の人が責められているようなので早く誤解を解かなくてはと、右手で両目を拭う。半ば擦るような形になっていたらしく、青髪の人が擦ると赤くなるから止めてくれと言ってまた腕を掴まれた。この人はどんな状況であっても、冷静に周りを観察できる人なのだろう。
カミュさん、イレブンさんの後からやって来たのは、ベロニカさんとセーニャさんというらしい。ベロニカさんの誤解が解けた後、セーニャさんがわたしの話を聞いてきたため、弱っていたわたしは思わず悩みを吐き出してしまった。言うつもりは毛頭なかったというのに、気づいたら旅をしている彼らに囲まれて逃げられない。魔物の住む場所にしか薬の材料がなくて困っていること、このままでは母を失う時間を待つことしか出来ないこと。話を聞いた彼らは満場一致したように顔を見合わせると、自分たちもそこに行く予定がある上にセーニャさんが薬の調合をできることを教えてくれた。怖いくらいに、母を救える道が一瞬で出来上がってしまう。
「ま、待ってください、でも」
「名前はなんていうの?」
「……名前」
「名前。僕たちがお母さんを助けてあげるから、待ってて」
「イレブンの言う通りだ」
「……わたし、何もお礼が」
「名前、いいから待ってろ。な?」
お母さん、イレブンさんたちが助けてくれるって。でも、彼らにお礼できる物が思いつかないの。母の目を覚まさないように、小さく語りかけたわたしは暗くなり始めた空の下に出て、海をじっと眺めていた。時折、青い色のカーペットを敷いたところに顔を出すのは、可愛らしい魔物たちだ。いつもは家の中から、規則性もなく打ち付ける波を見ているのだけど、彼らの姿がすぐにわかるように外に出て、同じように果てしなき青に視線を沈ませる。簡素な椅子が風の音に反応するように、心配になるような音を上げた。
トントン、と肩を叩かれたのはそれからどのくらい経った頃だろうか。家に括り付けてある電気を点けると、小さな虫たちが一斉に集まってくる。虫の羽音は少し苦手だ。椅子から立ち上がったわたしが振り返れば、昼間に一番に出会ったカミュさんが歯を見せながら笑っている。その手には、小さな袋が握られていた。彼以外は傍に見当たらず、キョロキョロしていると、カミュさんが他のヤツはキャンプ準備だと言う。
「セーニャが作った薬だ」
「ありがとうございます……!でも、カミュさん、あの」
「ん?」
「お、お礼の品物、わたしがお渡しできるようなものがなくて」
「名前、もしかしてそれを昼間言おうとしてたのか?」
こくり、と頷けばカミュさんは横に首を振った。別に何かが欲しくてオレたちは人助けをしているわけじゃない、そう続ける。でも、彼らが幾ら強いとはいえ、命を賭けて薬の材料を取ってきてくれたことに変わりはない。命を落とす危険だって間違いなくある。何か、何か、彼らのために出来ることはないのか。挙動不審になるわたしを見て、彼は笑う。知恵を絞れば、きっと良い案が生まれるはずだ。お母さん、隠してある家宝とかないの。
「どうしても気になるか?」
「当たり前です……!」
「……じゃあ、これで」
緑色の布が風に靡くように舞う。袖口から見えていた肌色が、わたしの視界を通り抜けていく。嫌な兆候を感じ取って早くなる鼓動ばかりを経験していたけれど、今の心臓の状態は言葉では形容しきれないものだった。気持ちの悪い苦しみではなくて、心臓を手で掴まれたような苦しさ。背中を撫でる手はセーニャさんとは全く異なったものだ。掠める香りに、緊張する身体は自分の物ではないように思える。もう大丈夫だ、耳元辺りで話すカミュさんの息が直にかかって、思わず肩を跳ねさせると落ち着けとばかりに、背中を何度も行ったり来たりする手の動きが止まらない。別段そんなに身長の大きくない彼であっても、男女の違いというのは触れるだけではっきりと身に沁みる。男の人にこんな風に触られたことのないわたしにとって、この時間は特別だった。
「もう、貰ったぜ」
「……えっ、あ、あの」
「血の繋がる家族はどんな状況になっても大事だ。名前からよく伝わってきた」
カミュさんは幸せに暮らせよ、と言ってわたしに背を向ける。小さくなっていく後ろ姿にわたしはゆっくり頭を下げた。カミュさんは貰ったと言っているけれど、どう考えても間違いなく、わたしが貰ってばかり。しかも、たった一瞬のアレが本当にお礼になるのだろうか。そして、彼の青と緑が目に焼き付いて離れなくなっていることに気づいたのは、母が元気になってすぐのことだった。
Title:誰花