冬恋ワルツ
*女の子≠監督
照明を浴びる彼の翼は、まるで役者として再び舞台に戻ってきたようだった。演目は目頭の熱くなるような内容で、真っ白な翼が役に合わせた衣装の一部であることもよく分かっている。数日前に、丞から送られてきたメールに驚いたことが既に懐かしい。紬が主役を担う舞台だ。画面に書かれた文字を何度も何度も読み直した。最近連絡を取ることもできずにいたけれど、そんな大きな一歩でさえ、紬は話してくれなかった。きっと、心の中に閉じ込めていた夢を話すことを躊躇っていたのだろう。彼はいつも、自分が逃げたとしか言ってくれなかったから。
劇場を出る時、衣装に身を包んだ丞と目が合った。無言の視線が刺さったが、わたしはそのまま劇場を出て行く。わたしは紬が話してくれるのを待つから。外に出てみれば、すっかり黒が溶け込んだような空が広がっている。不確かな何かを掻き消すような黒色は、わたしの心を少しばかり落ち着かせた。吐いた息がほんのりと、冷たい。劇場に入った時はこんなに寒さを感じなかったのに。
劇場のすぐ近くで足を止めたわたしは耳を澄ませる。来場した人が次々と感想を空へ飛ばすように、感情を言葉に乗せていく。人の波が落ち着くのを待ちながら、わたしは瞳を閉じる。紬は諦めてなんかいなかったのだ。心のどこかに、いつも演劇への思いを捨てられずに持ち続けていた。丞の演劇の話をする時、どこかの劇団を見かけた時、瞳の奥は仄かに光を灯していることをわたしは知っている。
「名前!」
「紬?」
劇場の扉が閉められる音がする。呼ばれた名前に顔を上げると、背中に翼のない紬が缶を両手に握ってそこに立っていた。手の届かない遥か彼方を飛んでいた彼が、地に足をつけて歩いている。芝居と現実の境目をはっきりと持っているくせに、そんなことを一瞬考えて小さく吹き出した。
わたしの座っていた小さなベンチに腰掛ける紬は、紅茶の缶を差し出す。ありがとう、小さくお礼を告げると、プルタブを引いた音が気持ちのいいくらいに鳴った。紬には最後まで内緒にして欲しかったのに。丞がきっと終演してから、話をしたのだろう。そうでなければ、飲み物を持って現れるはずがない。劇場を照らす小さな明かりを見ながら、静かな空間を味わう。
「これが終わったら、話そうと思ったんだ」
「……うん。そうだろうと思ったよ」
紅茶の香りが沁み込んだくちびるを緩めてみせれば、紬は表情を和らげる。すっかり無くなった客足の代わりに、寒さと静けさが運ばれていた。喉を潤す紬の横顔に、彼と会うのは何十日ぶりだろうかと考える。連絡をマメに取り合う方ではないけれど、こんなに間を空けたのは初めてのことだった。それも、紬が演劇に真正面から向かい合った結果だからだろう。
飲み終わった紅茶の缶を両手で握って膝の上に置いていれば、その缶を取り上げた紬の手。ゴミ箱がその辺りに見当たらないから、持って帰ろうと思っていたのに。紬は、二缶をベンチの端に避ける。並んだ缶は、ぴったりと綺麗にくっつけられていて、残り香が混ざってしまうようだった。
「また、舞台に立つよ」
「ずっと応援しているから」
細いけれど、しっかりした腕がわたしに伸びてくる。引き寄せられる力はまさに男の人のもの。舞台上の人間離れしたような彼の演技は、本当に天から遣わされた者のように見えたが、わたしに触れているのは間違いなく人間。くっつけた耳に、安心する鼓動の音が流れてくる。舞台の最後の伏せられた瞳はなんとも形容しがたいもので、呼吸を忘れてしまったことを思い出す。触れられるって、当たり前になっていたけれど何にも変えることのできない幸せなこと。紬、こっそり呟いたつもりだった名前は彼に聞こえていたようで、わたしを包む身体が揺れる。背中に回った腕は離されないままだ。
ゆっくりと顔を上げれば、瞳を瞑ったままの紬が夜光に照らされている。ふるり、と揺れた睫毛が上げられて、瞳がわたしと絡む。そこでふと思い出す。紬はこんなことをしている場合ではないと。冬組のリーダーを務めている彼が急に姿を消したとなれば、劇団員たちに迷惑をかけてしまう。早く行って、というつもりで彼の胸を押しても紬はわたしを離してくれない。分かってる、でもあと少しだけ、そう言って片手でわたしの頭を撫でる。
時間にすると、たった十分。寒空の下の逢瀬はやけに長く感じた。ようやく解放してくれた紬の背中をトン、と押す。前のめりになった彼は不恰好だった。思わずクスクス笑っていれば、くるりと振り返った紬がまたこちらへ戻ってくる。振り返った瞬間の表情は暗くて分からなかったけれど、近づく度に明るくなっていく。勢いよく掴まれた両肩よりも、寄せられたくちびるで頭がいっぱいになる。塞がれたくちびるに、言葉は必要ない。久々に触れた熱に、クラクラしてしまいそうだった。電話もメールもLIMEも一切していなかった日々、スマホの画面を無駄に付けたり消したりしたことか。可愛らしいリップ音を鳴らした紬は、頬をほんのりと染めて息を吐いた。そんな顔で劇団に戻れるの、と尋ねれば、もう一度くちづけられる。次に息を吐いたのはわたしだった。悔しくて、建物の中に姿を消していく紬の背中に向かって、言葉を投げつける。紬、好きだよ、と。
Title:誰花
Image song:スカーレット/スピッツ