ひたむきな愛の証であるかのように
*女の子≠プロデューサー
大学の講義が終わってバイト先であるドーナツ屋に直行した。わたしが働いているこのドーナツ屋は315プロダクションの高校生ユニット、High×Jokerと最近コラボしたおかげで大繁盛である。ハイジョの五人がそれぞれお気に入りのドーナツを紹介するCMが流れた次の日から、しばらくこの状態が続いていた。嬉しい悲鳴である。押し寄せるお客さんのスマホや鞄に彼らのグッズが付いているのも、何度も見た。
店頭に置いてあるハイジョとコラボの看板を見上げて、そのうちの一人に目を留めた。ドーナツを片手にいっとう輝いているのは、彼、若里春名だ。彼らの背景には小さな光を散りばめた飾りが施されているのだが、それにも負けていない。お店の奥から、わたしの名前を呼ぶ声がする。今日も、三十分前だけど働かないとお店が回らないな。本当はもう少しゆっくりしてから仕事に取り掛かりたいのだけど、ヘルプを断れない。
ここのドーナツ屋でバイトを始めたのには、理由がある。なんといっても、制服が可愛らしいのだ。女子大生の話題になっていることもあり、このお店のバイトを希望する人は多い。そんな単純なことに食いついた内の一人がわたしだ。きっかけは些細なことでも、わたしはこのバイト先に馴染めたし、楽しいと思っている。最近はさっきのアイドルたちとのコラボもあって、応募してくる人は一層増えたらしい。そろそろバイトの募集をやめてもいいと思う。店長が面接の多さに頭を抱えながらも笑っていた。
ショーケースに見栄え良く並べられたドーナツの減りは、種類によって様々だ。特に、ハイジョのメンバーが選んだおすすめドーナツは、ここのところ毎日売り切れてしまう。耳にした情報によると、ドーナツの売り上げが凄まじく伸びているのでコラボグッズも視野に入っているらしい。それならば、バイトに駆り出される時間が増えるのも間違いない。
お客さんに注文されたドーナツを箱に詰め込みながら、聞こえてくる声に耳を傾ける。ドーナツの種類の名前とか、ハイジョのメンバーの名前とか。彼らを知らなさそうな人たちの口から零れるメンバーの名前に、心が跳ねるようだった。
一人暮らしを始めてからというもの、自分が部屋に電気を点けない限り、帰宅時は部屋の中が真っ暗だ。ただし、自分が合鍵を渡したとなれば別の話。夜の帳が下りたマンションの電気は、幾つも点いている。外から見てみると、不規則に並ぶ光が不思議と目を惹く。開かれた窓からは、にぎわいを表すような声が漏れている。窓の向こうの閉まったカーテンの隙間からこっそりと顔を覗かせているような明かりは、そのにぎやかさから追い出されているようだった。寂しそうと息を吐きながら、自分の部屋を視界に入れる。変えたばかりの電球のせいで、周りの部屋よりも随分と明るいように見える。そう、わたしの部屋には今日、誰かがいる。スマホで鍵を開けておいて、という簡単なメッセージを送信して、エントランスに向かった。エレベーターを使う気になれないわたしは、隣にある階段を上り始める。誰かが待っていてくれることを長く噛みしめておこうと思ったからだ。
「ただいま」
「お!名前お疲れー」
「春名もお疲れさま」
鍵の開いている扉を開けて中に入ると、改めて鍵を掛ける。一人暮らしをしていると、物騒な事件に敏感になるのだ。講義中に教授がこの辺りの空き巣の話をポロッと言ったせいで、今でも頭から離れない。日頃から気をつけているつもりだけど、実際に近くで発生した事件もあって、もっと気をつけようという気になった。
部屋に上がり込んでいた春名はソファーに背中を預けて、スマホを弄っていたようだけれど、わたしの姿に気づくと同時に姿勢を整え、手に視線を集中させる。わたしの片手には今日貰ったドーナツが入った箱が下げられていた。パッケージから、わたしのバイト先のドーナツ屋だと分かっただろう。そして、自分が宣伝しているお店だとも。ソファーから速攻で下りてきた春名は、わたしの前にすっと立つ。エメラルドの瞳が、相手を射抜く勢いで向けられていた。年下だけど、背はわたしよりも大きい。
部活のあとに、彼もバイトに行ってきたのだろうか。ほっぺたに土が付いている。気がついていないのだろうな、そう思いながら春名の頬を親指で撫でる。支えるために添えていた指のうち、中指が耳に触れたのか、春名は擽ったいようで少し身震いをした。クスクスと笑えば、ムッとした表情の春名がわたしの手からドーナツの箱を奪う。年下といっても、二つくらいしか変わらない彼が子どものようで、オレンジ色の髪の毛に触れた。
「ベランダに出て食べよっか。今日は夜空が綺麗だよ」
お互いに気に入ったドーナツを手に取る。春名は喜んでドーナツにかぶりついたまま、ベランダの窓を開けていた。実はあのドーナツだけは、貰った物ではない。わたしが買った物。春名がお気に入りのドーナツであることを知っているので、仕事に取り掛かる前に先に買っておいた。案の定、バイトが終わってみればCMで春名がおすすめしているドーナツはひとつ残らず姿を消していた。
ベランダの手摺りに組んだ両手を乗せた春名は、ドーナツを咥えたまま、じっと夜空を眺めている。わたしは隣で、まるで望遠鏡を覗くようにドーナツの真ん中を通して、春名のように空を見る。小さな枠に閉じ込めた世界は、星の呼吸が聞こえてきそうなくらいに静かだ。
しばらく眺めたあと、望遠鏡のつもりにしていたドーナツをひとくちサイズに千切っては口に入れる。そういえば、にぎやかだった部屋は怖いくらいに静かだなあと思ったけれど、既に電気が消されていた。もう、世界は眠りにつき始める時間だと教えてくれるようだった。ふと自室の方を振り向いて開けっ放しの箱を置いたテーブルを見ていると、春名がわたしの腕に触れてくる。もう、ドーナツはすっかり彼のお腹の中へお邪魔してしまったらしい。
はいはい、と形が歪になってしまったドーナツを春名に渡す。無言でわたしに触ってくる時、春名が大体何を考えているのか、最近やっと察することが出来るようになってきた。何かをして欲しい時、つまりおねだりタイムで彼はああいう態度を取る。春名は目に入ったドーナツを全て食べないと気が済まないのだ。本当に心の底からドーナツという食べ物が好きらしい。
「ドーナツ食べたら、春名はお風呂に入ってね」
「名前は?」
「わたしは後でいいから」
「……ちぇ」
「なに?」
「一緒に入ろうかな、とか言ってくれないかなと期待してさ」
「残念でした」
鼻の下を伸ばす彼も、やっぱり男の人なのだ。軽くお腹辺りを小突いて、お風呂へ行くように背中を押せば春名はとても従順だった。ちなみにまだ、一緒にお風呂に入ったことはない。彼は機会を伺い続けているのだろう。けれど、決して強制はしてこない。子どものように自分の欲求を押し付けてくることはなく、最後の選択は必ず相手に委ねるのだ。わたしも女だから、強引な春名をちょっぴり想像したことはあるし、キュンとしたのは内緒。グイグイ迫ってくる春名も、良いじゃない。たまにはお気に入りと違う味のドーナツを食べたくなるのと同じことだ。欲張りだなあ、わたしは。
ドライヤーの電源を切って、元の位置に片付けると洗面所をあとにする。春名はベッドの上で、ぬいぐるみと横になっていた。わたしのお気に入りのぬいぐるみである。春名、と呼び掛けても気の抜けたような返事しかないので、相当眠たいのだと思う。今にも、瞼が閉じてしまいそうだ。落ちてくる瞼と懸命に戦っているのが、よく分かる。そんな彼を横目に、ソファーをもうひとつのベッドにしようと準備を始めた。いつもは春名がこっちに寝るのだけど、疲れが目に見えて分かるので今夜はポジションを交代だ。
すると、シーツの擦れる音がして、春名がわたしの腕を掴んだ。眠たい目を擦りながら、彼はわたしの動きの邪魔をする。ちょっと待って。まだ、ソファーで眠ることが出来る準備は終わっていないし、明日の大学の準備もある。先週出た課題レポートの印刷が終わっていないから、寝る前にやっておきたいのだ。朝が早いわけではないから、夜の印刷にこだわる必要はどこにもないけれど、朝バタバタするのはなるべく避けたい。それだけだ。
「名前」
「春名、もう寝てていいから。わたしのことは気にしないで」
「……名前、オレと寝ようぜ?」
掴んだ腕を離してくれない春名が、わたしのことを引っ張る。そのまま、二人でベッドに腰掛ける。ぬいぐるみはいつの間にか、棚の上に追いやられていて、ベッドの上にはひとつの枕と毛布があるだけだ。春名はもう一度、先程の言葉を繰り返す。明日の準備がまだなんて聞かないから、その言葉を付け足して。立ち上がろうとしても、春名のせいでベッドから離れられない。
無言が続いたあと、春名はついにわたしの両手を自由も奪った。身体の半分とちょっとが柔らかな場所へ沈められ、いよいよわたしは動けなくなる。煌々と点いた電気が邪魔だな、春名はそんなことを零しながら見下ろしてくる。ドーナツの甘ったるい匂いが部屋にまだ残っていて、今まであまり気にならなかったのに、こんな時にわたしの鼻についた。
「オレと、しような」
「……へっ!?まっ、待って春名、そんなっ、心の準備が」
「……名前?」
「お願い、待って、せめて下着を一番かわいいものに」
「いや、寝る前にハミガキを、って思ったんだけど」
「え」
「……もしかして」
腕の力が緩んだことを見逃さなかったわたしは、全力でベッドから逃げ出す。洗面所に逃げ込むと、ニヤニヤした表情で春名が数秒遅れて入ってくる。可愛い下着ってなに、オレのためにそんな下着があるの。歯ブラシを渡した鏡の中のわたしは、顔が真っ赤だった。歯磨き粉のチューブに余計な力が入って、彼の歯ブラシの上にはたっぷりと歯磨き粉が乗る。自分の番の時は適度な量だったから、春名は歯を磨きながら笑い続けていた。口の中のミントが、泡を立ててわたしの思考をはっきりさせる。春名の誘いは、本気なのか。チラリと横目で彼を見れば、コップに注いだ水を口に含んで濯いでいるところだった。
洗面所から出て行った春名の後をすぐには追えずに、その場で鏡と睨めっこしているわたしはハンドクリームを塗り直した。わたしの名前を何度も呼んでいる声をなるべく耳に入れずに、無心で。
ようやく戻ってきたわたしに、ベッドの近くに突っ立っていた春名は手招きをする。もうソファーで寝るという選択肢は残されていないらしい。いつも委ねてくれるのに、今日は引くつもりなど毛頭ないようだ。先にベッドに入ると、電気を消した彼が潜り込むように隣にぴったりとくっつく。お邪魔します、の声のトーンが高いのか低いのか分からなかった。
「オレと寝ような?」
「何回も言わなくていいから!」
「照れてる、照れてる。かわいいな」
「……うう」
「名前がさっき思ったことをオレはしてもいいんだぜ、なーんてな」
春名のおでこに頭突きをしたわたしは、彼に背を向けて目を閉じた。冗談だって、と少し焦ったような彼の声に思わず笑っていると、わたしの身体に腕が回ってくる。抱きしめられたのだと頭できちんと理解した。耳元で羊を数え出す春名の声が、わたしのことを確実に夢の中へと運んでいく。羊が一匹、羊が二匹、子守唄のように聞こえる。わたしも一緒になって数えようと口を開いた。でも、羊が三匹と言ったのはわたしだけだった。春名は、わたしの声を掻き消すように囁く。今夜、名前はオレの。おやすみ。彼は、わたしに眠ってほしいのか、それとも眠ってほしくないのだろうか。
Title:ジャベリン
Image song:枕男子/オーイシマサヨシ