桜の眠る夜のことでした
視界の下方が眩しくて、視線をゆっくりと落としてみれば、多数の石の塊がまるで人間の腕を形作っていた。青光に目を眩ませながらも、左腕が妙に重たいことに違和感を覚える。脳から送られる指令に腕が動いていないようで、どこか神経でもやられたのだろうかと思ったが、私が考えているよりも事態は深刻だったらしい。左腕の付け根の部分にも蒼色が鮮やかに侵食を進めていた。石の塊が自分の腕から発生していることを理解した途端に、身体全体が重くなる。地面に吸い寄せられるようだ。声を出そうとしても、言葉が喉から出てこない。必死の抵抗も虚しく、視界は暗転していく。見えていたはずの夕焼けが燃えるような赤色から、深淵に落とされるような勢いで闇と化していった。同時に意識も形を持たない、渦巻く暗闇へと消えていく感覚に襲われる。
目を開けた瞬間に飛び込んできたのは先程奪われたはずの夕焼けで、屋根の向こうから顔を覗かせていた。額の汗が酷く、身体全身も怠い感覚がはっきりと残っている。目の前の窓を開けて、恐る恐る自分の手に目を向けるが、石なんてどこにも見受けることはできなかった。そこでようやく安心感を覚えたものの、数分間は目に映る現実全てを未だに信じることができずに掌を見つめ続ける。普通の身体でないことは随分前から承知の上であるというのに。
ベッドの中で迎えた朝、目を擦り起き上がって昨日のことが頭を過った私はすぐさま左手を触診、視診して異常がないかを確かめた。指は自分の意思で動かすことができる。バラバラに動く指の動きを見つつ、背中を丸めてみれば、部屋の隅に置かれた鏡の中の私はなんとも冴えない顔をしていた。快哉としていないのは自分でもよく分かっているので、余計なお世話だと自嘲する。
服を着替えて部屋を出ると、仲間たちが既に集まっている様子が伺えた。普段だったら、私があの場所へ行くときはまだ数人しかいないというのに。それだけ今日は遅い時間の起床だったわけだ。
「名前、どうかしたのか。珍しいな、お前がこんなに遅いなんて」
「別になんでもない、涯」
椅子に腰かけて足も腕も組んだ恙神涯は私の姿を確認すると、不敵な笑みを見せつつ声をかけてきた。揺れる椅子が立てる音は涯が声に出さない笑い声を代弁しているようで、私は半分ムキになって言い返す。
自分が夕べ見た夢は実を言うと、一度目ではない。最近頻繁に見るようになった夢だった。何度も見るのだが、現実に起こることは今のところない。それが不気味で気持ち悪いものだったが、現実で起こってしまえば私の未来は一瞬にして奪われてしまうことになるだろう。今は一分、一秒と時間が惜しい上に、葬儀社が人手を多く必要としているのも理解済みだ。こんなところで倒れるわけにはいかない。ちっぽけな人間ひとりが何をできるかと問われ、大口を叩いて言い返すことはできないと思う。できることなんて微塵ほどもないかもしれない。けれども、全くとは言い切れない。豆粒くらいの可能性に私は賭けているのだ。先の未来を見るために、日常を、この日々を止めるわけにはいかない。
「それならいい」
「涯、私は強くない。でも弱くもない」
「知っている。ただ、何かあったすぐに言え」
「そういうところ、いつも思うけど涯の優しさだね」
「仲間を失くすのは避けたいところだからな」
戦闘中は一瞬の油断が命取りだ。特に遠隔攻撃を仕掛ける部隊ではなく、近接攻撃を得意としていた私はこの部隊の中でも涯にその能力を買われているらしい。死傷者が毎日のように出るこの中で、生き残り続けることは非常に困難だ。私が死ぬのも今日かもしれないし、明日かもしれないし、もしかしたら一年後も生きているかもしれない。それに命を失うのは戦闘だけでないのも確かだった。
最近、そんな葬儀社に加入していた桜満集という男は私の戦闘スタイルを見て、稲妻のようだと言う。暗雲が立ち込める空の下を駆ける姿が夜の空を切り裂いていくようだったと。新米のくせに、気取ったような言い回しをするものだから初対面にも関わらず、額を小突いてやったのも記憶に新しい。
「涯、名前さん」
「遅い」
「名前は集を弄ぶのが最近気に入っているのか?」
「まあ。思春期少年はからかい甲斐があるからね。涯と違って」
「し、思春期少年って……!」
「よし、集、来い。姉さんが稽古つけてやろう」
異性とは意識しているものの、それに恋慕を含むのかと言われれば答えは否だ。それよりも無意識ではあるが、私は桜満集の姉のような立場でありたいと願っているのかもしれない。昔いたはずの弟の面影を目の前で、拗ねた表情を見せる集に見ているのだろう。しょうがない奴だな、なんて思いながら手を握ってやると全身を震わせるものだから面白くてしょうがない。女と手を繋ぐだけでこんなにも反応する男を弄ぶ以外に何があるというのだ。餌食となってしまったのは私を恨むのではなく、集が自分自身を恨むしかない。
集を引っ張って葬儀社の生活空間の一部である広い場所へ行くと、運が良く先客は誰もいなかった。頬に赤みの差したままの集の手を離せば、ムッとした表情でこちらを睨みつけてくる。可愛い弟の反抗的態度を見ているようで、微笑を零すと集は更に機嫌を悪くした。戦闘訓練どころではなくなる勢いだったので、集に素早く近づいて頭を撫でると距離を取られ、あたふたしながらもこちらに向けて戦闘態勢をとった様子が見える。そうこなくてはね、と集が聞こえないように一言小さく呟くと私は銃を空に向けて打ち鳴らした。
「まだまだね」
「僕はそんなに強くないって知ってるだろ……」
「そうね」
「名前さんは本当に容赦ないよ」
「かわいいかわいい、集のためよ」
訓練を終えたあと、疲れ切った集を自室に招いた私は彼が座った椅子の近くにあったテーブルの上に温かなミルクをたっぷりと淹れたマグカップを静かに置いた。膜を張ったミルクを冷まそうと集が息を吹きつけるものの、液体はゆらりとも動かない。そんな集にティースプーンと砂糖を差し出すと、最初から一緒にくださいよと返ってきた。破られた袋から甘い塊が薄い膜を破るように落ちていく。それをぐるぐると掻き混ぜてしまえば、ミルクからは一気に甘い匂いが溢れたらしく、集はマグカップを元の位置に置く。向かい合うように置いている椅子に腰掛けた私はそのマグカップを奪い取るように手に取ると、集の瞳をじっと見つめながら喉を潤した。私の視線に耐えられなかった集は窓の外へと目線を逸らしてしまったけれど、葬儀社に来たばかりの時よりは時間が長くなったように思う。成長する集の姿を見られることはいつしか、私の中での喜びを感じる一部になっていた。喜ぶという感情をあまり感じることのできない場所に身を置いているからか、あまりその感情が顔を出すことが減ってしまっていたけれど、集のおかげで喜びの感情が戻ってきている。ひとくち飲んだミルクのマグカップには今朝付けたばかりのリップの色がくちびるの形となって、明瞭に残っていた。
「集もひとくちどうぞ」
「わ、分かってるよ。飲むからそこに置いておいてよ」
「ほら、この上から飲んで?間接キスになっちゃうけれどね」
「名前さん、なんでそういうこと言うかなあ……」
「照れちゃう集が可愛くて、しょうがないのよ」
行き場をなくした集の手を掴むと、そのマグカップを握らせてミルクを飲むように勧める。口紅の色は桜満集という名前にも入っている桜の色に似通っていて、その色が彼自身のくちびるに付くのかと思うとなんだか背筋がゾクゾクした。悪いことをしているわけではないのだけれど、若い男の子を自分の物にしてしまうような背徳感に溢れてしょうがない。今すぐにでもそのくちびるを私の色に染めてあげたいのに、集は私を焦らすように頑なにマグカップに口すら近づけようとしなかった。そんな時間も愛おしいのだけれど。
数十秒間、無言の空間に包まれた集と私だったが、ついに意を決したように集の腕が動き出す。唾を飲んだように集の喉が動く。喉仏は彼が本当に男であるという証拠だ。私は同じ場所に口を付けるように乞うたけれど、別に強要はしていない。ただ単にしてくれたら嬉しいという少しの期待感を込めて言っただけなのに、バカ正直な集は私の言う通りに、桜色とキスをした。どんどんと暖かく優しい白色を飲み込んでいき、集の喉は忙しくなく動き続ける。その様子を見ていた私は美味しいものが目の前に並べられているかのように思わず舌なめずりをした。唾をゆっくりと飲み込んで、椅子から立ち上がると桜色のくちびるをして頬を上気させている集がマグカップを置いたことを確認して、そこに噛み付くように口を寄せる。くちびるを合わせられるとは想定していなかったであろう集は、私の腰を掴むと引き剥がそうとした。しかし、その腕には力が込められていないことがすぐに私に伝わる。さながら鋭い牙を持った生き物がくちびるから生気を吸い取っていくようだと思った。
くちびるを離せば、集は大きく呼吸をした。キスの間どうやって息をするのかを知らなかったようで、懸命に酸素を自分の中に取り込んでいる。キスをする時の呼吸の仕方を知っている私からすればおかしい光景で、思わず笑ったけれど、集には睨むほどの余裕は残っていないらしい。そう思っていると突然大きな音を立てて、椅子を倒した集は立ち上がり、私よりも幾分か大きな身長を見せつけるかのように視線を遮って立ちはだかると、伸びてきた手に肩を掴まれた。勢いに驚いた私が何歩か後ろに下がると、集は好機と思ったのかそのままベッドに押し付けてくる。真っ赤な毛布と真っ白なシーツの上に倒された私は身動きが取れなかったものの、目線だけは集に合わせた。どういうつもりなのかは理解しかねるが、彼は私の上に馬乗りになったまま石のように動かない。
「……寂しいの?」
「突然どうしたの、集」
「名前さんは弱くないけど、強くもないよ」
「知ってるよ。集に言われなくてもね」
「…あったかい、名前、さん」
集の身体が倒れ込んできたかと思えば、少し大きいその身体は私を抱き込んでしまうのには充分で全てが彼でいっぱいになる。くちびるまでは平気でいられたけれど、身体同士の密着は恐ろしいものしかない。毎晩のようにみる夢の中で一度だけみた続きに飲み込まれてしまいそうになるのだ。弟ではなく、男である集のぬくもりを知ってしまったのならあの夢の続きは今度こそ私を襲いに来る。いつかは訪れる最期だろうけれど、知らないまま死ぬよりはマシなのかもしれない。私は覆い被さってきた集の背中に震えながらも腕を回す。誰よりも生に縋りついているのは私だった。
私の全ては煌めく固形物になるべく、飲み込まれて支配されてしまう。でも、まだ辛うじて泣いている集の姿は認識できる。もうじき、私の意識は本当にこの世から消滅してしまうけれど、彼の目に映る私の姿がまるで宝石だと思えてもらえたのなら、それでいい。最期に触れてくれた身体の熱、必死に名前を叫んでくれる声、全て私は忘れずに持って逝く。だから集、最期に私にかける言葉があるとしたなら、一言だけお願い。消える私を嘆くのではなく、称賛を浴びせて欲しい。桜色に染めたことのあるそのくちびるで、綺麗だ、と。
Title:誰そ彼
Image song:宝石になった日/BUMP OF CHICKEN