裸足のシンデレラ


*女の子≠プロデューサー



台本を渡された苗字は、ページをパラパラと捲る。ドラマの仕事を幾つかこなしてきた彼女にとって、台本を部屋で捲るのはいつものことだった。ただ、今回のドラマではヒロイン役を担うことになっていた。初めての大役で、台本を受け取った時に手が震えていた彼女はマネージャーに笑われていた。そんな彼女の相手は、舞田類という人物。元教師アイドルという噂を聞いていた苗字はどんな人かと想像する。教師というからには、少し堅い感じの人というイメージが彼女の中では強く、正直少々やりづらいという思いがあった。ページを捲るスピードも、段々と落ちていく。



「Hello!」
「おお、舞田くんか」



部屋に入ってきた人物はマネージャーに舞田類と呼ばれた。苗字はその声に反応して、入り口の方を見やる。目立つ髪色をした細身の男性がいろんな人に囲まれているのが、彼女から見えた。その顔は、教師というよりもむしろ生徒と思わせるもので、彼女は首を傾げる。一般的な教師のイメージから離れた舞田類は、苗字の視線に気づいたようで、周囲の人に断りを入れて、彼女の方へと歩き出す。どこか幼さも感じさせるような表情を見せたものの、やはり大人であることを苗字はひしひしと感じていた。振る舞いは子どもではない。



「苗字ちゃん?」
「はい。苗字です。舞田類さんですか?」
「Yes、よろしくね」
「こちらこそ、舞田さん」



舞田は苗字をじっと見つめる。挨拶を交わしただけであるのに、まじまじと見つめられるものだから彼女は狼狽えていた。挨拶の他に、いきなり彼と会話を続けることは難しい。相手のことをほとんど知らない彼女が、唯一知っているといえば、元教師で現アイドルということだけだった。舞田は、苗字を上から下まで眺めたあとに指を自身の顎にあてる。その仕草は、教壇に立っている教師を思わせるようで、彼女は舞田がやはり教師であったということを感じた。



「舞田さんは先生をなさっていたんですよね」
「English teacherだよ」
「なるほど、それで英語がペラペラなんですね。びっくりした」
「ところで、苗字ちゃん。これ、love sceneあるよね?いろいろとよろしくね」
「えっ」



台本を指しながら舞田が零した発言は彼女にとって、大きな衝撃だった。今までのドラマではラブシーンに遭遇しない役ばかりだったが、今回のドラマにはラブシーンというものが含まれているらしい。舞田のいろいろという言葉が意味するものに若干不安を覚えた彼女は、捲る速度を急速に上げた。紙の擦れる音だけが、二人を支配する。舞田も彼女の様子を伺いつつ、手元にある台本に目を通していく。
苗字の目に飛び込んできたのは、紛れもなくラブシーンであった。舞田の言っていることは間違いない。更にそこに並ぶ言葉たちに、彼女は思わず真顔になってしまった。手を繋ぐことや並んで歩くだけのシーンだったのなら、今までの彼女で充分対応できたであろうが、くちづけに加えて、ベッドシーンがあることで苗字は完全に固まってしまう。舞田はそんな彼女の反応を見ながら、クスクスと笑う。



「Relaxしてね。俺も頑張るよ」
「あっ、は、はい」



舞田は手をヒラヒラとさせて部屋を出て行く。マネージャーは苗字が気づいていなかっただけで、もう既に部屋を出ていたようだ。キスに、直接的な行為はないとはいえ、異性とベッドに入らなくてはならないらしい。想像しただけで、顔に熱が集まるのが分かった苗字はその場にしゃがみこむ。いつかは来ることだとは思っていても、やはり現実を受け入れるまでに時間は掛かる。彼女は、姿を消した舞田を追うために部屋を飛び出した。扉をいささか乱暴に閉めたようで、大きな音が辺りに響いた。そんな音にもお構いなしに、苗字はすぐさま舞田が左右どちらに行ったのかを確かめる。幸いにもまだ遠くに行っていなかったようで、廊下の先に彼の姿を捉えることができた。苗字はヒールの音を鳴らしながら、目立つ彼を追いかけていく。舞田さん、と呼吸が整う前に声を出すと、くるりと振り向いた彼が目を細めて笑った。



「なかなかpassionate womanなんだね」
「え、えっ?あの、舞田さん連絡先を教えていただけませんか」
「OK!ちょっと待ってね」



服のポケットに手を突っ込んだ舞田は、携帯を取り出すとディスプレイを指で弄り始める。舞田が顔をディスプレイから上げるまで、爪が綺麗に手入れされたアイドルの指先に苗字は見とれていた。舞田が、苗字に携帯を出すように促すまでそれは続き、声を掛けられて我に返った彼女は携帯を差し出した。







舞田に部屋を指定された苗字は廊下をゆっくりと歩いていた。ドラマの撮影は今のところ順調で、舞田はアイドルとは思えないくらいの演技を魅せていた。芝居が本業である苗字が思わず息を呑んでしまったシーンもある。様々なアドバイスを受け止め、自分の糧としようとしている彼の姿は見習うべきものだった。煌びやかなステージの上で、歌って踊るだけのアイドルと思ったら大間違いなのだ。ステージは違っても、魅せることには変わりないと舞田が言っていたことは苗字の胸に残っている。
トントン、と控え目なノック音に気づいた舞田が部屋の中から入っておいでと声を掛ける。扉を開く苗字は今から面接にでも臨むかのようにひどく緊張していた。椅子に座って、鏡と睨めっこしていた舞田は、おいでと手招きをする。苗字は、そっと部屋に足を踏み入れて、一歩ずつ着実に前へと進んでいく。彼女が面接でも、ドラマの本番でもないのに緊張しているのにはきちんと理由があった。ドラマの撮影そのものは順調に進んでいたのだが、今度の撮影でついに濃厚なラブシーンに突入する。その現実を目の前にした苗字は、不安で仕方なかったために舞田に練習を頼んだのだった。本当は隣を歩いて、手を繋ぐだけでも緊張していたのだが、それがむしろ初々しい演技として評価されたのである。しかし、次はそうはいかない。監督が求めている初々しさを出すことも大切なことではあるが、そもそもキスの仕方が分からないのだ。女は、一体ベッドの中でどんな風なのかということも彼女の中に像ができあがっていなかった。先輩の生の演技を見たり、いろんなドラマを自分でチェックしたものの、自信は一向につかなかった。そこで頼ることができたのは、相手役の舞田だけだったのだ。



「じゃあ、早速love scene練習しよっか」
「お願いします」
「もっとrelaxしてね」
「は、はい」
「このページからでいいかな?」



こくり、と頷いた苗字は舞田の指示したページを開ける。付箋が貼られ、端が折られたそのページは彼女がどれだけ意識しているかが分かる。舞田はそれを見て、彼女の背中をゆっくりと撫でて耳元で囁く。大丈夫、苗字ちゃんなら、と。
ホテルのある一室で繰り広げられるラブシーン、と読み上げた舞田は既に役者として表情を作り上げていた。普段は柔らかい表情で、話しかけやすい雰囲気だというのに、台本を持ったまま椅子に腰掛けた彼はまさに男の表情だった。包み込んでくれるような優しさを持つ一方、艶やかで誘われているような気分に自然とさせられた苗字は、舞田に触れられるくらいまで距離を詰める。そんな彼女に向かって伸びていく腕は、途中で止まった。



「怖い?」
「……ご、ごめんなさい、顔に出てました!?あの、続けてもらって大丈夫ですから」



大丈夫でないことは舞田もよく分かっていたが、苗字が続けて欲しいと言ったために宙で手持ち無沙汰になっているそれを再び動かし始める。肌を傷つけないように切られた爪が、部屋の明かりで照らされた。頬を包むように舞田の触れる手は、苗字に熱を伝えていく。自分でない人間の熱を受け止めることが恥ずかしいことであることが、彼女も数日前の手を繋ぐ行為で痛いほどに分かっていた。しかし、今はそれ以上のものが襲っていた。愛おしそうに頬を撫でる舞田の顔を見ることができない苗字は思わず目線を落としそうになるが、台本には彼と見つめ合うように指示されている。目は合わないものの、俯くことはなんとか耐えた。舞田は、椅子から立ち上がると、目の前のひとりの女性をじっと見つめる。頬に当てていた手を顎へと移動させ、彼女の顔を自分の方へと向けさせる。苗字の瞳に舞田が映っているように、逆もまた然りだ。大きくぱっちりとした瞳は可愛らしさを前面に出すのだが、それはアイドルの舞田類だ。今の舞田類は、役者として立っている。彼女の顎を持ち上げ、大きな瞳で男女の仲へと誘惑する。吸い込まれてしまいそうな瞳が伏せられ、睫毛が揺れた。苗字は、近づいてくる舞田を拒むことなどできない。これはドラマのための練習なのだ。時間を割いて、自分に付き合ってくれている舞田の好意を無下にすることはできない。そして、自分のスキルを高めていくためにも逃げることなんてできなかった。例え、この演技のキスが、自分にとって初めてのキスだったとしても、だ。
苗字のくちびるに、別の熱を持ったそれが合わさる。彼女のくちびるを時間を掛けて食むように舞田が動かすものだから、苗字は身体の力が一気に抜けてしまいそうだった。なんとかしてその場に立つことに必死だが、彼のキスは終わらない。舞田に身体を支えられているのは彼女にも分かった。耳に届く、微かな湿った音が彼女に羞恥を与える。あと、何回この行為を舞田相手にしなければならないのか。苗字は、自身のくちびるにかかった息に小さく身体を震わせる。舞田のくちびるが離れたことを知らせる合図のように感じて、目を開けた。止めていた息を吐く。
ギラギラした瞳は、雄が雌を食べてしまうイメージを苗字に抱かせた。キスだけで終わりではないのだ。彼女の両肩を掴んだ舞田は、ベッドの白いシーツに沈めるように押し倒す。くしゃりと皺のできた純白のシーツは、彼女がその上に横になっていることも相まって舞田にとって芸術のように、そして美しく思えた。交わる瞳は、キスの前よりも一層色っぽく濡れていた。人間の三大欲求のうちの、ひとつの欲の前には男も女も勝つことができない。双方とも、愛と、快感を求めて溺れていくのだ。



「……っ、苗字ちゃん」



苗字と舞田が演じるのはここまでだ。キスから始まってベッドに押し倒したところで、ふたりは見つめ合う。そこまでが一連のシーンである。舞田は、組み敷いた彼女を見下ろしたまま、苗字の名を呼ぶ。熟れた林檎のように彼女の頬が染まっているのは、化粧のせいだけではなく、舞田が与えた熱と苗字自身から込み上がった熱のせいだった。口をそっと開いて呼吸を繰り返す彼は、決して彼女の上から身体を動かそうとはしない。呼吸のリズムが乱れているのは、苗字だけでなく、舞田も同様だった。もう、演技は終わっているのにも関わらず見つめ合うふたりは、傍から見れば本当の恋人のようにしか見えない。



「……very cuteだね」
「舞田、さん」
「好きになっちゃうよ……そんな顔されちゃ」
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