ピンクの花弁は砂糖に浸して


*女の子≠プロデューサー



家のテレビを何気なくつけると、芸能ニュースについて様々な人がコメントしているところだった。そして偶然にも、大きなライブの情報が映像と共に流れてきて、わたしのいる小さな部屋が一瞬でライブ会場になる。あの日の、アイドルたちの姿が映像を通して目の前に浮かんでくるようだった。歌に、ダンスに、もう胸がいっぱいでその日はまともに言葉にできなかった。ライブギリギリまで各ユニットの曲、ソロ曲を繰り返し聴いたものだ。歌を聴く度に心が躍ったことも記憶に新しい。ペンライトだって、ユニットカラーを確認して全色揃えた。部屋に一人の瞬間を狙って、アイドルたちの歌の中で掛け合いを確認しては手を上げて叫ぶ。人がいないからこそ、できることかもしれない。ランダムに曲を流して、ペンライトの色替えも練習した。このニュースを見ただけで、こんなにも思い出が溢れてくる。あの会場に、あの日、わたしは確かに存在したのだ。彼らを愛する人に囲まれて、生のアイドルを見ることができて、本当に幸せな時間だった。
歓声に包まれて、思い出に浸っていると不意にチャイムが鳴る。あの人が帰ってきた、と思ったと同時にわたしはソファーから立ち上がって玄関に駆け出す。この家は、実はわたしだけのものではなく、今帰宅したであろう人物と一緒に住んでいるのだ。いわゆる、同棲というものをしている。



「苗字くん、ただいま」
「おかえりー!硲さん!」



片手で眼鏡を触りながら、わたしの前に姿を現したのは硲道夫というアイドルだ。315プロ全員のライブを楽しみに行ったのも大きいけれど、なんといったって硲さんの大舞台だ。観に行かないわけがない。硲さんは、玄関は寒いから部屋に戻っていなさいと言う。はーい、と返事をしたわたしは玄関の扉が閉められる音に続けて施錠の音を耳にしながら、小さくスキップをして部屋へと戻る。硲さんが帰ってきたことが嬉しくて、部屋と玄関の温度差など全く感じていなかったけれど、彼に指摘されて初めてそのことに気付いた。わたしと硲さんは同棲状態であるけれど、あのライブの後、わたしが出張で家を空けたこともあって、ライブ後に会うのはこれが初めてだ。ライブ会場では、近いようで遠いような寂しさを感じていた。でも、こうやって目の前にすると近くにいてくれることを実感できる。
硲さんがなかなか玄関からやって来ないのが気になったけれど、わたしはお茶を淹れながらその瞬間を待つ。ソファーに身体を沈めて、わたしのことを焦らす彼のことを待つ。きっと彼は、そんなつもりなど毛頭ないのだろう。足音が聞こえる。一歩、一歩、近づいてくる足音に思わず背筋が伸びる。堅いイメージを与えがちな硲さんだけれど、それは彼の一面であって、全てというわけではない。他の一面を知っているのは、なかなかいないのではないかと思う。もちろんユニットの山下さんや舞田くん、それにプロデューサーは知っているかもしれない。それでも、その人たちが知らない硲さんをわたしは確実に知っている。
部屋に姿を現した硲さんはいつものようにスーツを着ていた。ライブの時とは、違う緊張感を漂わせた彼に首を傾げながら、隣に座るように促す。けれども、硲さんはそこから動かないし、両手を背中に回したまま、真剣な表情を崩さない。いつもだったら、柔らかく笑ってくれるところなのに。今日あった出来事を話してくれるのに。なんだか別人で、わたしはその理由を尋ねようと口を開いたけれど、先に声が響いたのは硲さんの方だった。



「苗字くん」
「は、はい」



教師が生徒に呼び掛けるようなそれに、少々違和感を持ちながら咄嗟に返事をする。まるで高校生にでも戻ったかのようだった。硲さんはゆっくりと、ソファーに座るわたしの前にやって来て、片膝をつく。あれ、わたし、この硲さんの姿をつい最近どこかで見たことがある。思い出すために、硲さんから目を逸らしてぼんやりと考えた。絵本の中の王子様がこういうことをするのを最初に思ったけれど、実際の硲さんの姿をわたしは絶対見たことがある。本人に聞けば分かることかな、と彼に目を戻せば、バチリと視線が交わる。そうだ、わたし、この前のライブで硲さんが咲ちゃんに向かって膝をついているのを見たのだった。少し羨ましく思ったのは内緒だ。そんなことを考えていると、硲さんが隠し続けていた手の片方をわたしに見せる。甘い香りに襲われる。濃いピンク色が並んで咲き誇る様は彼らのユニットをイメージさせる。目の前にはそんな大きな花束が差し出されていた。やっぱりそうだ。咲ちゃんと舞田くんとパフォーマンスをしている時の硲さんで間違いない。



「……えへへ、硲さんありがとう」



花束を受け取ったわたしがお礼を言いながら、このお花はどこに飾ろうか、花瓶を探しに行こうと立ち上がりかけたが、それはままならない。硲さんが先程まで花束を持っていた手でわたしの腕を掴んでいたからだ。まだ、何か、あるのかな。そう思って、腰をもう一度落ちつけると、もう片方の手がわたしの目の前に差し出される。小さな箱が硲さんの大きな手の中に収まっている。彼と再度目が合う。眼鏡の向こうの熱い瞳がわたしを離してくれない。ステージからお客さんたちを見つめる熱とは、違う熱だと思った。わたしを掴んでいた手は、小箱の蓋をゆっくりと開く。



「苗字くん、いや、名前。私と結婚して欲しい」



わたしと硲さんを包むのはアイドルたちが幕を引く挨拶の声だった。ありがとうございました、天道さんの声が一段と響き渡って、その後に皆の声が聞こえてくる。ステージ上の彼らに負けず劣らずキラキラと光る指輪を目にした瞬間に、わたしは硲さんの顔も、彼の手の中でこの瞬間を待ちわびていたであろう指輪も見ることができなくなる。夢のような出来事に頭も心も全てが追いつかない。この前のライブだって、やっと現実だったことを受け入れつつあるのに。自分の膝を見ながら、ひとつずつ硲さんの行いと言葉を整頓していくと、自然と頬も膝辺りも濡れていくのがわかった。視界がぼやけて、温かい涙が頬を伝っていく。流れ落ちた涙は、温かい部屋で少し乾燥していた膝を潤す。



「顔を上げなさい」
「……っ、ん」
「何を泣くことがあるんだ」
「……だっ、だって嬉しい、から」
「嬉しい、か」
「当たり前ですよ……!」
「ならば、泣くことはないじゃないか」



涙を零すわたしに声を掛ける硲さんの表情は、愛おしさを感じるものだった。こみ上がる涙は止まることを知らないようで、ついには硲さんの手をも濡らした。彼はわたしの頬に手を添えて、親指で溢れる涙を拭ってくれる。優しい言葉に、こんな追い打ちをかけられては涙が止まるはずがない。硲さんはずるい人だ。ステージの上の、アイドルの硲さんだって、何度も何度も心の中でずるいって呟いたばかりなのに、今から旦那さんになろうとしている硲さんだって本当にずるい。わたしだけが彼に振り回されて、笑顔をもらって、元気をもらって、涙まで流させられて。
止めどなく溢れる涙に完敗したのか、硲さんはふっと笑うと諦めたように手を一旦離した。指輪をそっと持ち上げると、わたしの左手を捕まえて、薬指へ。箱の中での真っ暗な寂しさで冷え切った指輪は、硲さんの温かい手で熱を持ち始めていて、そこに加わるわたしの熱ですっかり温かいものになっていた。薬指をなぞる指輪と彼の指が擽ったくて。でも、本当に幸せで。



「名前、返事を聞かせてもらえるだろうか」
「硲さん……」
「君も同じ苗字になるのだが」
「……道夫さん、わたしの返事分かっていて言ってますよね」
「そんな表情を見ていたら分かってしまう。しかし、直接、君の口から聞きたい」
「うう……あの、不束者ですが、よろしくお願いします……!」



薬指に煌めく指輪をひと撫でして、そっと口を寄せるものだから、驚いたわたしは反射的に手を引っ込めてしまいそうになったけれど、道夫さんがそれを許さなかった。小さなリップ音がよく聞こえた。この空間があまりにも静かだったのはテレビの電源が、いつの間にか消されていたからだった。泣いたり、笑ったり、頬を染めたりと忙しいな、君は。道夫さんは少しばかり笑いながら、わたしの隣に座った。いますぐ、わたしのことを抱きしめてほしいと思った。そのアピールとばかりに道夫さんの方に身体を寄せれば、わたしの顎を彼の手が持ち上げる。これも、見た記憶がある。何度も言うようだけれど、本当に道夫さんはどこまでもずるい男の人だった。
顎を支えていない反対の手で、道夫さんの眼鏡が外される。眼鏡を外した姿は非常に貴重なもので、風呂上がりの一瞬や寝ているときにしか見ることができない。それから、互いに次の日が休みの夜、とか。眼鏡が置かれたときに立てる音を聞いて、わたしはゆっくりと目を瞑った。咲ちゃんが羨ましいだなんて言ったけれど、前言撤回だ。



「私に任せなさい」



言われなくとも、道夫さんに全てを委ねているつもりだし、彼の背中にいつまでもついて行きたいと思っているよ。唇を合わせている時間、そのことが伝わればいいなあと思っていた。アイドルとしての身嗜みを大切にする道夫さんの唇にしては、少しカサカサしているようだった。わたしにプロポーズするの、顔には全然出ていなかったけれど緊張してくれたのかな。いつもなら潤っているはずなのに。教師にもアイドルにも似合わない、妖艶な水音がわたしの耳を支配していく。生温いものがわたしのくちびるをつつく。口を開けて欲しい、そんな風に道夫さんが強請っているようだった。







「はざまさん」
「ミスターはざま!」
「改めて、紹介したい人がいる」
「ということは?」
「上手くいったんだね〜Congratulations!」
「私の妻になる、硲名前だ」
「み、道夫さん早いですってば」
「む?間違ってはいないと思うのだが」



次の日、早速会って欲しいと道夫さんが言うので、わたしは山下さんと舞田くんの元へ行った。どうやらこの二人は彼のプロポーズ大作戦に加担していた人たちらしい。ライブの感想を伝えると舞田くんが、道夫さんのプロポーズのあれこれを聞いてきたので、上手く誤魔化すことに必死だった。



「名前ちゃん〜、俺の壁ドンはhow is it going?」
「舞田くんそれは遠慮願いたい」
「道夫さん……」



わたしと舞田くんが話しているところに割り込んできた道夫さんは、舞田くんに対して目を光らせていた。冗談だって分かっているのになあと息を吐いて、視線を二人から逸らせば、同じようなリアクションを取っていた山下さんと目が合う。あまりにもタイミングが良かったために、クスクスと笑うと今度は道夫さんがわたしと山下さんの間に立ち塞がる。山下さんの言葉は聞き取れなかったが、わたしの前に立つ道夫さんに急に触れたくなって、空いている手を握る。山下さんと舞田くんから、お熱いねとばかりの言葉を貰って恥ずかしい。でも、わたしは今、そうしたいと思ったのだ。アイドルの硲道夫も大好きだけれど、これからずっと傍にいてくれると言った夫としての硲道夫もそれ以上に大好きなのだから。



Title:誰そ彼
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