煌びやかな街中から逃げるようにして、チタンはビルの隙間に忍び込む。自分以外の目がないかと確認をしながら歩く様子は、アルカレアファクトとしてステージでピアノを弾く彼からは想像もつかない。秘密を抱えるチタンは毎日仮面を被って、メンバーと共に活動しているようだった。ただ、ステージに上がった時とピアノを弾いている時だけは隠し続けるために被った仮面が自然に外れ、音楽と真っ向から向き合うことができるらしい。メンバーの会話に飛び込んだとき、周りに合わせることに必死なチタンは、常に表情を伺う癖が付いてしまっていた。



「お姉たまー!」



チタンは金持ちではない。アルカレアファクトは金持ちのメンバーで構成されていると謳われているものの、彼だけは違うのだ。それは彼が誰にも言えない秘密であった。一緒に練習をし、バンドを組んでいる仲間であったとしてもだ。ほとんど自分のことを話そうとしないチタンだったが、それでも自分の家に帰ってきた時だけはありのままの自分でいられるのである。チタンの姿を見つけた弟たち、バルトとニケルが駆け寄ってきてくれるのだ。自分を頼りにしてくれている。だからこそ小さな弟たちをチタンは養っていかねばならない。それが自分の生きる意味のひとつと言えるかもしれない。
他人から言わせれば、ここは家と言えないものかもしれないが、弟たちの元気な声が聞こえてきて、チタンは口元を緩める。冷静を装った鋭い瞳は、いつの間にか兄としての優しい瞳になっていた。いつも弟たちはチタンの帰りを楽しみに待っているのだ。
彼らの第一声は姉を呼ぶ声であった。だが、彼らには姉はいない。血の繋がった姉は存在しないのだ。ぼんやりと明るい部屋に入れば、小さなソファーにチタンの弟二人は女の子を挟んで瞳を閉じていた。中心に座った女の子は、彼らの頭を撫でながら口を開く。
チタンは足を止めた。貧乏で、こんな生活を送っていることはアルカレアファクトでも、ファンでも知らない。その場でゆっくりと弟たちのように瞳を閉じて、聞こえてくる歌声だけに耳を澄ませる。音符が部屋の中で、彼女の声と共に踊り出すようだった。数秒閉じていた瞳を開けて、小さな玩具のピアノを引っ張り出すと彼女の歌に合わせて指を動かす。玩具のピアノが奏でる音は、グランドピアノやキーボードには決して敵わないものであるけれども、バルトとニケルは兄が帰ってきたことを知り、増えた音にも耳を傾けてはうっとりと聞き惚れている。彼らは兄のピアノが世界でいちばん好きなのである。
彼女は、チタンの方を見ながら歌い続ける。チタンは彼女の方を見ながら、ピアノを弾き続ける。すっかり息の合った歌と演奏は、小さなコンサートを開いたようであった。彼らしか聞くことの許されない、特別なものだった。



「チタンくん、おかえりなさい」
「お兄たまー!」
「お兄様、おかえりなさい!」



ソファーから飛び降りてチタンの元に駆け寄る弟たちの頭を撫でた彼は、その後ろで微笑む彼女を見る。彼女、名前はチタンのことを昔からよく知っており、唯一彼女だけはチタンと秘密を共有しているのであった。近くに住んでいる名前は、チタンたちがお腹を空かせているのではないかと心配しており、よく料理を多めに作ってしまったと言い、ここへやって来る。弟たちが喜ぶので何も言わないが、チタンは彼女がわざと多く料理を作っていることに気づいていた。一人分必要だと分かっているのに、頻繁に四人分作ってしまうことは、普通に考えるとあり得ないことだからである。
バルトとニケルが料理を美味しそうに頬張る姿も、名前の歌に酔いしれては楽しそうにしている姿も、チタンは嬉しくてたまらなかった。弟たちに苦労をかけてしまっていることに胸を痛めているが、そのような姿を見ることができるのは、紛れもなく彼女のおかげである。



「チタンくん帰ってきたから、わたしは帰るね」
「えー!お姉たま帰るの?」
「わたしお姉ちゃんじゃないんだけどなあ……」
「お姉様だよ!ねえ、お兄様もそう思うでしょ?」
「え、まあ、そうだな」
「チタンくんまで」



両手を振りながら、くるりと背を向けた××はチタンたちの家から出て行く。ヒールの立てる音が寂しそうに響いていた。名前が持ってきたという料理がテーブルの上に残されている。まだ手が付けられていないようで、それは彼の弟たちが兄と一緒に食事をしたいという表れだった。弟たちとの時間も大切にしたいチタンだったが、いつも思うようにはいかない。だからこそ、限られた時間で彼らと触れ合い、言葉を交わし、また次も頑張ろうという気力をもらうのだった。



「お兄様、寂しいの?」
「お兄たま、名前お姉たまが帰るとき、すごく、悲しそう」
「お兄様は名前お姉様がいるとき、すごく、嬉しそう」
「そんな……!オレはお前たちと一緒にいるのが楽しいし、嬉しいんだ」
「ボクたちはお兄たまとお姉たまの、ピアノと歌がすき」



弟たちから名前について指摘を受けると思っていなかったチタンは、少し戸惑いながらも言葉を返す。弟たちの面倒をよく見てくれる彼女には大変感謝しているし、名前に合わせてピアノを弾くのは嫌いではない。むしろ、自分の知らない世界に触れたようで、今度の曲作りに生かせるかもしれないと思っていた。しかし、バルトもニケルもチタンの表情をよく見ているようで、名前がいるとき、そうでないときの僅かな違いを見抜いているらしい。チタンは自分でその違いに気づいていなかった。チタンは家を出てしまえば、もうひとりの自分自身を作っている。全てを曝け出すことができないのなら、必然的に隠すことに繋がる。だが、家の中にいる時のチタンはありのままだ。
チタンは弟たちの頭をまた撫でると、大きな鍋から小さな皿へ盛り付け始める。二人に言われたことを頭の中で繰り返すが、特に彼女に対する感情はない。秘密を共有した昔からの友人で、歌を歌うことが好きな子だ。チタンは彼女のことをいつも、そう見ている。ならば、どうして一緒にいたときに嬉しいと思うのか。どうして彼女が帰ったら悲しいと思うのか。心を許した友人と一緒に過ごす時間を嬉しいと思い、その楽しい時間を知っているからこそ、いなくなった時に悲しいと思うからではないのか。チタンは、湯気の上がる鍋の底を見つめながら頭を悩ませる。



「こぼれちゃうよー!」
「危ない……!」
「お兄様、どうしたの?」



名前のことに気を取られたチタンは、盛り付けようとしていた皿に溢れそうなくらい、色鮮やかな具材をいつの間にか乗せていた。弟たちに言われなければ、こぼしてしまっていたかもしれない。小さく溜め息をついたチタンは、自分の皿を目の前に持ってくると、弟の合図で手を合わせる。いつまでも名前のことを考えて立ち止まっているわけにはいかないのだ。弟たちのことも、アルカレアファクトのこともある。
ひとくち、口にした芋が舌の上で溶けていく。少し冷えていた身体がだんだんと温まっていくようだった。相変わらず、バルトとニケルは満足気な笑みを浮かべて小さな口を大きく開けては、次々と野菜や肉を放り込んでいく。
名前は、一体、オレにとってどういう存在なのか。それだけで曲をひとつ作ることができそうで、チタンは玩具のピアノをじっと見つめるのだった。答えはきっとピアノと歌が教えてくれるに違いない、そう思いながら。

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