「お姉たま、ここ!」 「お兄様はここ!」 テーブルの上に並ぶ白い大きな皿は既に空っぽ。名前は今日、バルトとニケルのためにパイを焼いてきていた。林檎の香りをパイだけでなく、自身にも纏わせた彼女がチタンたちの家にやって来た時、入り口に向かって鉄砲玉のような速さですっ飛んでいった二人は、名前の両腕をぐいぐいと引っ張ったものである。彼女はクスクスと笑いながら、ゆっくりと大きなパイを運んできた。今日は余り物ではなく、チタンたちのために作ったと言う。味を甘めにしているのはバルトとニケルに合わせて、ということだとチタンは思った。いつだったか鮮明には思い出せないが、チタンと名前の二人だけで菓子を食した際には甘さを重視せず、甘さを控え目にしていたはずである。チタンが感謝の意を伝えている間にも、テーブルを囲んでソワソワしている二人は今か今か待ち遠しくて仕方ないようだった。チタンはそんな二人の頭にそっと手を置くと、ちゃんと名前にお礼を言うんだぞ、と呟く。名前は彼らの会話と反応を楽しみながら、ナイフで四人分に切り分ける。もちろん、楽しみでしょうがない二人の分は少し大きめに。 ありがとう、と言ったバルトとニケルは子どもらしい表情が全面に出ていて、日頃我慢をして兄に迷惑をかけまいとしている姿とは違った。名前は単純に嬉しかった。子どもらしく、ワガママを言えばいいのにといつも思っているからである。そして、それはチタンも一緒だった。特にバルトはニケルの兄としての自覚が強いためにチタンにワガママを言ったことはないらしい。ニケルもワガママを言ったとしても、最後までそのワガママを突き通すようなこともなかった。彼も、弟たちが小さいながらに気を遣っているのを嫌でも感じているはずだと名前は、チタンに皿を渡しながら思う。 あっという間に平らげた皿にはポロポロと零れてしまいそうな欠片ひとつさえ、残されてはいなかった。普段からの言葉遣い、行儀の良さ、全ては昔から兄を見て育ってきたからであり、そして家族の存在があったからであろう。今は離れ離れになってしまっているが、こうやって家族の形は残っているのだ。食べ終わった二人は、チタンと名前をソファーの中心に寄るように指示する。それから近くに置いていた玩具のピアノをチタンに差し出す。チタンと名前は目を合わせて、小さく笑った。彼らがピアノを持ってきて二人に要求することはひとつしかないのだから。 「今日はお兄たまも歌ってほしいなあ」 「わあ!お兄様、歌ってくれる?」 「ああ、もちろん」 「チタンくんが歌っちゃったら、わたしの歌声霞んじゃうね」 「そんなことはない。バルトもニケルも喜ぶよ」 「お姉様もすき」 「ボクも!」 「バルトくんもニケルくんもとってもいい子だから、チタンくんも嬉しいね」 隣同士に座った名前とチタン。そんな二人を挟むように座ったバルトとニケルが笑い合っていた。チタンがニケルと会話を始めたのを見たバルトは、隣に座っている名前のスカートの裾をくいくいと引っ張る。名前はバルトの方を見て、首を傾げる。バルトは、耳を貸してと言う。なんだろうと思いつつも、自分を頼ってくれているようで名前は頬を緩めた。 「……お姉様、あのね」 「うん」 「手、握ってもいい?」 ゆっくりと名前が頷けば、バルトの表情がそれはもう心許ない照明よりも輝いた。キラキラとした瞳で、彼女が差し出した片手を両手で思いっきり握る。チタンがニケルに構っているために、きっと今だけはニケルの兄ではなく、チタンの弟としてこの場にいたいのだろう。こんなにも甘えてくるバルトを初めて見た名前は、彼の頭をゆっくり撫でた後にその小さな身体をぎゅっと抱きしめる。途端に彼女の後ろ側から、ニケルの羨ましがる声が上がる。今まで会話していたニケルが突如声を上げるものだから、少し驚いたチタンだったが、自分も振り返って状況を理解すると、ニケルを抱き上げる。膝の上に乗せた小さな小さな身体を思いっきり抱きしめた。血の繋がった大切な弟を、これからも守っていくと心の中で誓いながら。 ひとしきりそれぞれ触れ合った彼らは、ひんやりと冷たいこの場をいつの間にか、ほかほかと温かく楽しい場へ変えていた。チタンが鍵盤に指を添えれば、弟たちは二人を静かに見上げ、名前はチタンのピアノを待つ。指揮者のいないコンサートは、チタンの息を吸う音が始まりの合図だ。 今日二人が歌っている曲は、チタンが弟たちのために作った歌だった。作っている最中に名前にも見てもらっており、彼女も知っていて歌うことができるのである。最近はアルカレアファクトの曲ばかりを作っているため、弟たちだけのために時間を割いて曲を作ることができなくなっていた。チタンにとっては、嬉しいことでも寂しいことでもある。アルカレアファクトが世界中で人気になれば、自分の弟たちにもっと良い生活を送らせてあげることができるのだ。しかし、忙しくなることは目に見えているため、弟たちと触れ合う時間も減ることになる。天秤にかけることができない二つのものだからこそ、チタンはその狭間に閉じ込められては日々葛藤するしかなかった。アルカレアファクトも、自分の弟たちも大切なのだ。 曲が間奏に入った頃、チタンは隣に座っている名前を見ながら鍵盤のステージに指を躍らせる。彼女は時間を見つけては訪ねてきてくれて、バルトとニケルの世話をしてくれている。名前も仕事をしているわけだが、彼らとの時間を全く作ることができなくなることはなさそうに見えた。毎日は厳しいが、二日に一回は顔を見ているような気がしている。自分が忙しくしている間に寂しい思いを弟たちにさせているのは間違いないが、彼女のおかげで緩和されているのもまた事実だった。かけがえのない存在になっている、そういう風に言える。歌詞を書くこともチタンの仕事の内だったが、実際に言葉を並べた時に自分が経験したことのないことだとピンとこない。しかし、いつか綴った言葉にそういえば、そんな言葉を使ったことがあったことを思い出したチタンの指は、いつの間にか止まっていた。 「チタンくん?」 右腕を掴まれたチタンの頬が、急に熱を上げる。その瞬間にバルトとニケルの言葉も思い出す。彼女がいる時は嬉しい、いない時は寂しい表情をしている。そう彼らは指摘していた。 一方、名前はピアノの音が消えたことにも、間奏を抜けても歌いださないことにも違和感を覚えてチタンの腕を掴んだのだった。体調でも悪いのか、それともこの先を忘れてしまったのかと不安になって、彼の顔を覗き込む。僅かにだが頬が赤く染まっていることを発見した名前は、慌ててチタンの額へ手を伸ばす。もちろん、最初に考えた体調が悪いのではないかと心配だったからである。アルカレアファクトとして忙しくしている彼は、きっと自分の体調が悪くても隠すに決まっている。それが、弟たちの前であったとしてもだ。心配をかけたくないあまりに隠してしまっているのではないか。だが、名前は逆にそれこそが心配だった。拗らせて更に悪化すれば、もしかしたら命にかかわることにもなる可能性もある。大袈裟かもしれないが、チタンはアルカレアファクトにとっても、バルトとニケルにとっても、そして名前にとっても大切な人であるのは間違いのないことだからこそ言えるのだ。 久しく家族以外の人に触れられていなかったチタンは、びくりと身体を震わせる。ひどく熱くなった頬に掠った彼女の手が、冷たい。頬を通り過ぎて額に触れている名前の顔が、近い。膝の上に乗せている玩具のピアノが落ちそうになったところを、ニケルが支える。バルトは、兄が風邪をひいているのかと言いたげで、心配そうな表情をしていた。 「熱は、なさそうだけど」 「お兄たま、大丈夫?」 「……ちょ、ちょっと考え事をしていただけだぞ」 「もう、チタンくん!歌っている最中だったからびっくりしたよ」 「すまない。続きをやろう」 「お兄様……」 身体を乗り出していた名前は元の位置に戻る。赤くなった顔を必死に名前から隠そうとしていたチタンだったが、下を向けば、それはバルトにはよく見えてしまっていた。しっかりしている兄ではあるが、バルトはこの時、自分の兄はとても鈍感な人なのだと思った。年の離れた弟でもその感情の名に思いつくところがあるのに、と。 |