時間を掛けて作ったケーキをぶちまけた上に、チタンのところへ持って行くための大きな皿も割ってしまった名前は自分の家に帰る気分にもなれずに、適当に歩いていた。ふと、ビルを見上げれば、チタンの所属しているアルカレアファクトが取り上げられている。キーボードを弾く彼の姿を見に行ったことはあるが、家で玩具のピアノを弾く姿とはまるで別人のようだった。家では兄の顔を見せているが、バンドの時はそうではない。アルカレアファクトの一員として観客を魅了している。彼の別の一面だといってよいだろう。 チタンは、名前のことについて口にしていたのだ。偶然、あのタイミングで家に行ったのも悪かっただろうが、あんな風に思われているのは名前にとって、紛れもなくショックなことであった。ともだち以上でもそれ以下でも、チタンの言葉が彼女の脳裏に甦る。確かに名前はチタンにとってそういう存在ではあるが、ただのともだちではないことをほんの少しでも言って欲しかった。しかし、あの言葉を並べたチタンの口調が氷の刃でも突き付けられたようにしか思えなかった名前は耐えることもできずに、逃げ出した。そう、チタンにとって名前はその程度の存在であったこと。はっきりと口にされて涙を我慢できるほど、彼女は強くなかった。 「チタンくんは、ともだち」 次、チタンの家を訪ねる時、名前はどんな顔をしたらよいのだろうか。自分がともだちという存在であることを彼に伝えて、互いに共有し合えばいいのだろうか。簡単にできるのなら、あの時点で涙を堪えて言えばよかったことだ。そうすることができなかったために、名前は今、フラフラと徘徊しているのである。大きな溜め息をつきながら、しばらく歩き続けた彼女は途中で見つけたベンチに腰掛けた。今頃、チタンたちはどうしているのだろうか。彼の言葉を、バルトとニケルはどう思ったのだろうか。どんなに離れたとしても、名前の頭を占めるのは結局チタンたちのことだった。逃げられるわけがないと分かっているのに、距離を置いて少しでも冷静になろうと必死な自分がなんだか馬鹿らしく思えてきた。それもこれも全て、チタンのせいで間違いない。名前は彼の力になりたかったのだ。理由は述べなくても明白である。そばで支えることが彼女のしあわせだった。つまり、名前はチタンへの想いが友人ではないことを認めており、自覚しているわけである。 次の訪問のことを考えたが、それは自分の傷を抉ることにもなりかねない。そう、名前は思い直す。それならばいっそ、もう訪問することをやめたらよいのではないのか。だが、そうすると彼らへ名前が料理を運ぶことがなくなる。バルトとニケルが腹を空かせるかもしれない。それならば、料理だけでも運ぶべきなのか。チタンと顔を合わせるのは非常に気まずいが。名前の中で様々な葛藤が生まれる。完全に突き放されたわけではないというのに、彼女はチタンから離れようとしていた。もう、傷つきたくないからだ。 「名前!」 自分の名前を叫ぶ者がいる。名前は驚いて、辺りを見渡す。切羽詰まったような声色で、彼女の鼓動が早く鳴り始める。名前が歩いてきた方向から、走ってくる人影が見えた。角と耳を持っていて、白いスーツのような服で、水色の髪と尻尾を揺らして。彼女にはすぐにその人物の正体が分かっていた。チタンと気づいた瞬間に立ち上がった名前は、彼とは逆方向に走り出す。もう、何も聞きたくなかったのが本音だ。これ以上、チタンの言葉を聞きたくはなかった。 名前が走り始めたのが分かったチタンは息を切らしながら、もう一度腹の底から声を出して彼女の名を呼ぶ。これ以上離れてしまっては、ともだち未満の関係になってしまうかもしれないと危惧していた。そばにいたはずの存在が遠くに行ってしまうことの悲しさはチタンが一番よく知っている。会いたいときに会えなくなる。言葉を交わすことさえ簡単にできなくなる。触れることすら、叶わない。名前とそうなりたいわけではないのだ。むしろ、彼女には一番近くにいてほしい、話したい、いつでも触れていたい。今は素直にそう言える。それはチタンの背中を押した弟たちの存在も大きかった。 名前は何度も呼ばれる自身の名前に対して、耳を塞いだ。チタンが自分の名前を幾度も幾度も呼んで、こうやって追いかけて来てくれている。たった一度突き放されたと感じただけで逃げてしまう自分は、なんて弱い生き物なのだろうか。重くなる足は、ついに走ることをやめた。歩き出した名前にだんだんと近づいてくる、チタンの足音。もし、ここで彼に捕まったとしても、また更に突き放されてしまう可能性だってあるというのに。もう、名前は逃げることをやめた。立ち止まって、振り向く。砕け散ってしまっても、もういいや、とほとんど自棄だった。 「はあ、はあ……っ、名前!」 「チタンくん……」 「悪かった」 「わたしは、気にしてないよ」 「だったら、なぜ逃げた。なぜ、泣く」 「ちょっとびっくりしただけだから」 「……オレが悪かった。だから、もう、そんな顔をしないでくれ」 「……っ、チタン、くん、離して!」 「離さない。オレは、もう、名前と」 「言わないで!」 「ともだち、やめる」 チタンの腕の中で暴れていた名前の動きが急に止まる。ともだち以上でも以下でもないと言った矢先に、今度はともだちをやめると言い出したチタンは、名前を抱きしめたまま逃がさないとばかりに力を込める。ギリギリのところで堪えていた名前の瞳から涙が堰を切ったように流れ出す。ともだちをやめる、それは近くにいることも許さないという言葉のように名前には聞こえた。ともだち未満の存在に過ぎないと宣告されたような気分だった。だったら、腕の中に閉じ込めないで欲しいと名前は叫ぶ。腕に噛み付く。一度大人しくなっても、再度散々暴れ回る彼女にチタンは何も言わない。ただ、彼女にされるがままになっていた。だが、腕の中から逃がすことは絶対にしない。 名前が自分の体力を全て消耗しきった頃、チタンは彼女の頭を撫でる。そうして、しきりにすまないと繰り返した。耳元で囁かれる言葉には棘なんてひとつもなく、蜂蜜のように甘いそれは耳を溶かしてしまうようだった。先程聞いた言葉を思い返してみると、痛みを感じるような鋭い刃ではなかったような気がしてきた名前は、チタンの胸にそっと自分の顔を押し付けた。高そうな服を汚してしまうことも厭わずに。 「ともだち、やめる。名前と」 「もう、会いに行っちゃダメってことなの?」 「……違うよ。聞いて。オレは、名前がすきなんだ」 感情に名を付ける。それはどんな名前なのか。チタンも名前もそれぞれ答えは出ていた。ただ、相手のことが「すき」なのである。素直に認められなかったチタンと、気づいていても踏み出せない名前。互いに歩み寄ることのないまま、一直線の状態が続いていたが、それはチタンの言葉によって終わりを告げることとなる。二本の直線が徐々に交わり始めたのだ。 名前はゆっくりとチタンの背中に腕を回す。踏み出してはいけないと思っていた先に、進むことはどうやら悪いことではないらしい。取り乱した自分の姿をチタンの前で晒したことを今更恥じることとなった。抵抗する際に、腕に噛み付いたりと子どものようなマネをしてしまったのだから。 「……チタンくん」 「オレは、名前のことをともだちとして見ていないよ。きっと、前からひとりの女の子として見ていたんだ。傷つけて、本当にすまなかった」 「わたしも、話を聞かなくてごめんね。噛み付いて、ごめんね」 「いいんだ。名前、オレの家に帰って来て」 「……うん」 「これからはともだちじゃなくて」 「あのね、わたしもチタンくんのこと、すき。だから嬉しいの」 「……そうか。大事にするよ」 繋がりを断ち切ってしまうような大喧嘩にまで発展していたというのに、言葉の力は凄まじいもので関係をあっという間に良好なものへと変えてしまう。逆も然りだ。簡単に悪化させることもできる。 チタンは名前の手を取ると、二人が走って来た道をゆっくりと歩き始める。名前は照れながらも、彼の手を握った。バルトとニケルがどんな顔をするかが楽しみなチタンは、五分ほど歩いたところで急に立ち止まって、名前の方へと振り返る。さっき、言おうとしていた言葉を早く伝えたいと思ったからだ。今、伝えなくてはならない。これまでみたく、言葉足らずで彼女を悲しませることは二度としないと心に誓ったのだ。名前は振り返ったチタンの熱い瞳から、目を離せない。しばらく見つめ合ったあとに彼のくちびるが、動いた。 「こいびと、になって欲しい」 |