職員室に呼ばれたオレは、ノクトを待たせるわけにはいかなかったので、メールを入れておいた。ゴメン、今日は時間がかかるから先に帰っていて、と。まだ、ノクトにはナマエちゃんのことを何ひとつとして話せていないけど、そのうち面と向かって話す機会を作ろう。単純にノクトには知っていて欲しいことだったから。
失礼します、と言ってドアを開き、オレを呼び出していた先生の姿を探す。どうして呼び出されたかなんて思い当たることはないから、悪いことではないだろう。といって、良いこととは限らないけど。先生、と声をかける。わざわざすまないなと言いながら、積み上げられた書類を上から下まで目を通す先生の次の言葉を待つ。引き出しもプリントだらけな先生は、オレに一枚のプリントを差し出す。どうやら、オレ宛ではなく、保護者宛のプリントのようだった。つまり、事務連絡だ。学校と家を繋ぐ手段のひとつであるプリントを受け取ったオレは、職員室を後にする。
プリントに適当に目を通しながら廊下を歩いていると、窓の向こうの夕陽がやけに眩しく、思わず瞬きを何度もする。慣れてきた目を擦って、ここから見える校門に目を向ければ、手を繋いで帰る生徒の後ろ姿が見えた。そういえば、付き合ったカップルって一緒に帰ったりするんだっけ。まさに青春って感じ。ノクトには確かに連絡をしたけれど、ナマエちゃんと帰りの話なんてしていない。彼女はどう思っているのだろうか。オレと一緒に帰りたいな、なんて思ってくれていたりするのかな。それだったら、嬉しい。緩む頬を両手でパンパンと叩くと、プリントの端が音を立てて折れる。慌てて伸ばすけれど、もちろん跡は消えなかった。自分の教室に向かって再度歩き出したオレは、両手を頭の上で組む。帰り誘えば良かったなあ。階段を上りきって、まだあのカップルいるかなと窓から覗いたが、もう既に姿はなかった。



「先生も、先にプリントにくれれば良かったのに〜」



教室に入って大きな独り言を天井に向かって飛ばす。誰もいない教室にそれはとてもよく響いた。さっさと荷物をまとめて帰ろう。そう思って自分の席に目を落とせば、その向こう側で机に突っ伏した誰かがいる。てっきり誰もいないと思っていたから、思わず口を押さえた。ぐっすりと眠りに入っているのか、微かながら寝息が聞こえる。机からはらりと落ちている髪の毛は夕陽色に染まっていた。起こさないようにそっと近づいたオレは自分の机の教科書やノートを取り出して、鞄の中に詰め込む。彼女の様子を見ながら、手元をよく見ずに感覚だけで詰め込んでいたオレの手から、薄いノートが一冊床に落ちた。些細な音でも、眠りを邪魔することはあるので彼女に動きがないかと息を呑む。結局、彼女は反応を見せなかった。オレがひとりでびっくりしただけだったので、ふう、と止めていた息を吐き出す。まとまった鞄を床に置くと、椅子に腰掛けて、起こさないようにそっと手を伸ばす。開けっ放しの窓から入ってくる風が指先を掠めていく。頭のてっぺん辺りに手を落として、髪の毛に沿うように動かしていく。指の隙間を擽る髪の毛の感触は、オレをドキドキさせた。また、ひとつ、ナマエちゃんに触れてしまったから。自分の席からだと頭の後ろしか見えることはない。そこでふと気づく。反対側からだと顔が見られるのではないかと。寝顔を見られることを女の子はきっと嫌がるだろうけれど、オレは見たい。寝顔を見たこと、内緒にすればいい。
椅子から立ち上がって、窓と彼女の席の間に立つ。背中にひんやりとした風を受けると、自然と喉が鳴った。奥歯を噛みしめた。目線を落とすために、膝を曲げていく。まるで魔法、眠りの呪いにかかったかのようにピクリともしない彼女の、睫毛と閉じられた瞳、それに眉。それだけが目に入る。髪の毛に隠されて、他は全く見えない。顔が見たい。そう思った次の瞬間には、顔と髪の毛の隙間に手を入れていた。女の子にこんな風に触れる経験なんてないから、雑誌で得た知識や漫画のヒーローを思い出す。柔らかい頬に爪が当たらないように。髪の毛を動かすときに、どこかに引っ掛けて痛い思いをさせないように。カーテンを開けた時に眩しい光が差し込んでくるように現れた、無防備といえるナマエちゃんの寝顔。少し開いたくちびるから、目を逸らせない。乾燥するからと女の子はリップを持ち歩いていて、よく塗っているのを見かけるけど、きっと彼女もそのうちのひとりだ。ぷるぷるのくちびるは男を誘惑するという宣伝文句はよく聞くし、その通りだと思った。触ってみたい。でも、手じゃなくて、もちろん自分のくちびるで。
彼女と同じように目を閉じる。何も見えなくなったオレの耳には、風の音と、鳥の鳴き声と、すぐ傍にいる彼女の寝息だけが聞こえていた。このまま、奪ってしまってもいいのか。ナマエちゃんはどう思うだろう。もっと、ムードを大切にしたいかもしれない。場所を考えてと言われるかもしれない。付き合って初日にキスをするなんて信じられないと叫ぶかもしれない。尋ねたい相手は、夢の中だ。ずるい男になってしまうかもしれないけど、もう、我慢なんてできなかった。それに隠し事をするのが下手だから、ちゃんと正直に話そう。目を開いて、顔を近づける。呼吸を整えて、なんとなく制服のネクタイを解いて。もう少しでくっつきそうなところで、目を再び閉じる。ナマエちゃんの開いたくちびるを飲み込むように塞ぐ。自分のくちびるに彼女の零れる吐息がかかる。ほんの少し開けていた口の中で、オレの息と彼女のそれが混ざるような感覚は、気持ちを昂らせるだけだった。もう、いろいろ考えることはやめた。数秒くっつけていることだけに集中していたオレは、くちびるを離したあと、自分のそれに指を滑らせる。いい香りがして、色付きのぷるぷるがほんのり移ってしまっていた。しばらくぼーっとして、一言だけ呟く。今の出来事が決して夢ではないことを感じたくて。



「……キス、しちゃった」



思い出すだけで身体中が熱くなる。もっと欲しい、と叫んでいる。まだ眠りから目覚めないナマエちゃんのくちびるを奪ってしまうことは簡単なことだけど、欲張りになってしまったオレは起きている時の反応も知りたくなったわけだ。それに、キスしたことを伝えたらどんな反応を見せてくれるのだろうか。言う方も照れとの戦いになるけど、それ以上に彼女の反応を見たい。とりあえずは、ナマエちゃんの目覚めを待つことにしよう。自分の椅子を彼女の席の目の前に持ってきたオレは、背もたれに肘をついて顔の火照りを冷やすことにした。



Title:ジャベリン
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