*女の子≠プロデューサー 仕事終わりの飲み会から帰る金曜日はどこか浮かれた気分であるらしく、玄関の鍵を開錠する苗字はやたらと上機嫌だった。上司の愚痴に付き合って、ヘラヘラと何も考えずに笑う彼女は心から楽しんでいた。土日が決まった休みなので、明日はもちろん休みだ。仕事のことなんて、一つも考えなくていいのだ。その分、日曜日の夜が憂鬱になるのは否めないが。それに、彼女の気分がこんなにも高揚している理由は他にもある。玄関の扉をゆっくりと開いた彼女が、ヒールを脱げば、その隣には大きな革靴がつま先を入り口に向けて、少しばかり不格好な並びをしていた。もちろん、この靴は彼女の物ではない。新品ではないものの、彼女が定期的に手入れをしているので、光沢は保たれている。この靴の主も金曜日に浮かれて、靴の並べ方が適当になったのかもしれないと思った苗字のくちびるは思わず、弧を描いた。荷物を引っ張り上げて彼女が歩いていく廊下の先は、電気ひとつ点いていない。昨夜の連絡で、彼女よりも先にこの家に上がることは分かっていたが、その動作ひとつもサボるくらいには靴の主は疲れているのだろう。なんせ、今日は駅前でミニコンサートをしたらしいのだ。何曲も歌って踊れば、身体を鍛えていても、疲労感が彼を襲っているに違いなかった。持ち曲も増えた上に、三人ともソロ曲をそれぞれ持っているのだから、かなり盛り上がったはずだ。仕事が終わって同期と居酒屋へ移動していた苗字は、その駅近くを通っていたのである。すれ違う若い子たちが、ミニコンサートを開くアイドルたちのグッズを持っていたのを彼女は見ている。嬉しいような、どこか寂しいような気持ちが彼女の心を引っ掻き回していた。 部屋に入って彼女の耳に届いたのは、規則正しい寝息であった。男の人にしては随分可愛らしい寝息に、彼女は鞄を定位置に静かに置くと、洋服を脱ぎ始める。まずは風呂に入ってしまおう、と。下着姿になった苗字はタンスから新しいバスタオルを引っ張り出したあと、ベッドに倒れ込んでいる彼をそっと覗き込む。いつも彼女の寝ている場所を空けているのは意識的なのだろうか。瞑られた目はそのままに、口だけが少しばかり開いたと思えば、普段笑っているときと変わらない表情を見せる。何か楽しい夢でも見ているのだろうか。苗字はぐっすり夢の中に沈んでいる彼、天道輝の左手に自身の右手で触れた。じんわりと滲んでいる汗。大きな手に包まれてしまえば、あっという間に彼女の手は暖かくなる。天道の指の隙間を何度か行ったり来たりした苗字は、近くにあったタオルケットを彼に掛けた。お口直しにと貰ったキャンディーはまだ口の中で星の形を保っていたが、それに構わず彼女は天道にくちびるを寄せる。 浴槽に浸かって、空になっていたシャンプーを詰め替えながら、苗字は今日のような金曜日が毎週続けばいいのに、と小さく呟いた。アイドルという職業は不定期な休みのため、彼女と違って決まった休みではない。天道の仕事が増えるということは世間に認められてきたという喜ばしいことではあったが、彼女と過ごす時間が削れているのもまた確かなことだった。あまりにも寂しくて、枕を濡らした日だってある。そのことを天道に伝えることは永遠にないが。なぜなら天道にとって仕事が、アイドルとして一番星を目指す大切なステップとして欠かせないものだと彼女はよく理解している。夢へ向かって一直線の彼の邪魔をすることは御法度である。それに、キラキラ輝く彼の姿を想像することは、苗字をたちまち幸せにさせた。どんなに寂しくても、こうやって空いた時間に天道は会いに来てくれる。プライベートも仕事も充実させるアイドルでいて欲しいと心から願っているのは、他でもない、苗字なのだ。 ドライヤーをすることなく、髪を簡単に拭いた苗字は再び天道のいるベッドへと向かう。髪の毛からぽたりぽたりと落ちる雫は、彼女の歩いた軌跡を美しく作り上げる。もし天道が起きていたのであれば、きっと注意されるだろう。乾かさないと風邪ひくぞ、そう彼は言葉にするに違いない。ベッドのスプリング音が静かな空間に響く。軋むベッドの音は彼女を天道の隣へと導いていくようだった。どこか少年のような一面も持つ天道の横顔を見つめていると、最近聴いたメロディーが彼の口から囀るように紡がれる。彼のそれに続けるように、苗字が歌詞を乗せてしっかりと歌う。一番星まで、その歌詞の後を彼女はよく知っている。 彼はきっとわたしがいなくても、最高のアイドルになれるのかもしれない。苗字の髪の雫と一緒に生温かい水の粒が天道の腕に落ちた。それでも、傍にいて、隣を歩くことを許してくれるのもまた天道輝に違いない。彼の言葉はいつでも元気を与えるのだ。苗字だけではなく、彼の歌、声を聴く人全てに、だ。どんな時だって全力のパフォーマンスを見せる天道をその日の最後に思い浮かべることができるのは、彼女にとって一番の幸せだった。嫌なことがあっても、投げ出したくなっても、泣きたくなっても、天道のことを想って。そして、無邪気に、でも甘やかすように、名前と呼んでくれる彼の声を思い出していた。 「輝、だいすき。いつも、ありがとう」 苗字が天道の耳元で呟けば、まるで聞いていたかのように彼の表情が明るくなる。瞳はしっかりと伏せられているのに、優しくあたたかな笑顔は周りを照らすようだった。明日、もう一度天道が起きている時にこの言葉を伝えようと決めた苗字は、彼の隣にくっついて目を閉じる。おやすみ、囁くような声は深夜の始まりを告げた。 Title:ジャベリン Image song:シアワセ/aiko |