*女の子≠プロデューサー 「俺、警察官やめるよ」 真っ黒なキャンバスに幾本の白い筋が描かれていく。現れては消える、それを繰り返す空の下、握野が呟く。屋上の小さな庭園に座り込んだ二人の間で、絶賛売り出し中のアイドルの曲が彼のスマホから流れていた。苗字は突然の告白に最初こそ動揺を隠せなかったものの、彼の横顔を見れば、それが冗談ではないことは理解できた。彼女も自分の仕事が順風満帆ではないため、何か嫌な出来事でもあったのではないかと彼の袖をそっと掴む。理由を聞いていいのか、聞いてはいけないのか。苗字には分からなかったが、このまま今日彼と別れるわけにはいかなかった。 「英雄は」 「……アイドルになるんだ」 「アイドル?」 苗字が今後のことを尋ねようと口を開けば、先回りをするように握野が言葉を遮る。警察官とアイドルというと、随分かけ離れた職業のイメージだろう。彼女は握野のアイドルになる経緯が知りたかった。世間に言わせれば、公務員である警察官は収入も安定しているものの、アイドルは成功できるかできないかで自分の生活水準が変わってくる。彼の人生だからこそ、いろいろ口出しをする気はなかったが、試験や訓練を乗り越えた末の警察官をなぜやめるのかが引っ掛かっているのだ。握野の努力で、その職を掴んだことを知っているからこそだった。彼の成し遂げたいことがアイドルという職業でも叶えられるのだろうか。苗字はゆっくり立ち上がると、握野の目をじっと見る。 「英雄のやりたいことなんだね」 「ああ」 「聞きたいことは、そのうち聞く。今は聞かないでおくね」 「……名前」 「ほら英雄、アイドルは笑顔が大切だからね。キラキラ王子様スマイルっていうの?練習しなきゃ!」 苗字はよく笑う女だった。同時に強がる女でもある。握野は、笑顔を浮かべる彼女をじっくりと観察する。確かに笑っているが、彼女の手は自身の洋服の裾を掴んでいて、小さく震えているのだ。布に触れていない小指がしきりに揺れている。ふと、アイドルの曲が終わりを告げた。あと一曲分で、最終列車の時間がやってくる。握野は勢いよく立ち上がった。ピンと張った背筋は美しい一直線を描くようで、立ち姿は凛々しさに溢れていた。彼は苗字の腕を握ると、自分の方へ引き寄せる。そのまま、元の位置に座り込んだものだから、彼女はバランスを取れずに握野の腕の中に飛び込んでいく形となる。触れてみれば、小さな背中がしきりに震えている。お前と何年の付き合いになると思ってるんだ、と握野は呟いて彼女の背中を撫でる。彼が苗字と出会うまでの思い出全てを知っているわけではないが、一緒にいるようになってから作った想い出だって数えきれない程にあるのだ。 「名前、俺だって不安だ。でも、アイドルは俺が本当にしたいことを叶えられる」 「うん」 「歌もダンスも頑張るし、もちろん笑顔の練習だってする」 「……英雄はちょっと怖いからね」 「目付きの悪さは」 「生まれつき!」 「分かってるのに言わせるなよ……」 「わたしは英雄を応援する。いつでも味方だよ」 「……ありがとな、名前」 苗字はぼんやりとだが、握野とのこれからを最近夢見るようになってきていた。もう、二人とも社会人で、今までのような学生とは違う。そう、子どもではなく大人なのだ。彼女の周りでも既に結婚や妊娠という言葉が飛び交っているからこそ、余計に彼との未来を考えてしまう。そこに転職の話が飛び込んできたものだから、驚きと戸惑いで胸がいっぱいになっていたが、握野が優しく頭や背中を撫でてくれると心は自然と落ち着いていた。心配することなんてない、彼を応援することが今の自分にできる精一杯のことだ、と。大サビに入った曲が、今日の逢瀬の終わりを知らせる。 「英雄、電車の時間」 「分かってる」 「……ん」 「名前」 鞄に荷物を纏めた苗字が再度立ち上がりかけると、握野の腕がそれを妨げる。時間は刻一刻と迫っているにも関わらず、彼女は慌てることもなく大人しく彼の腕の中に収まっていた。抱き合っている時間を互いに少しでも長く味わいたいらしい。そっと身体を離せば、握野の前では苗字が笑っている。彼が警察官を辞めて、アイドルを目指すことを話すことは例え相手が彼女であっても、躊躇いがなかったといえば嘘になる。しかし、握野は今日彼女に伝えることができて良かったと心から思うのだった。今すぐに自分の夢を叶えることができるわけではないが、決して手が届かないことではない。積み重ねる努力は握野の得意分野だ。それに、彼の前に現れた、ヒーローのようなプロデューサーと同じユニットの仲間がいて、隣には苗字がいる。握野を支えて、背中を押してくれる人間が周りにたくさんいるのだ。 「駅に行こう」 「うん」 「名前、あのな」 「英雄?」 「……電車に乗る前に」 キスがしたい。そう呟いた握野のはにかんだ笑顔を見て、アイドルになれる要素は充分にあるじゃないと苗字は思った。意識して笑顔を作ろうとすると、引き攣ったものになってしまうことを彼女はよく知っている。自分の顔を見られているのに耐えられなくなったのか、握野は彼女より先に歩き出す。わたしだってして欲しい、という意味も込めて苗字は握野の隣に走って行くとそっと手を握った。 Title:誰そ彼 Image song:僕なりの恋/KAT-TUN |