*女の子≠プロデューサー 伊集院は、だから昨日言ったのに、と朝から慌ただしく家の中を走り回る苗字の姿を見ながら笑いを零す。極度の面倒くさがり屋である彼女は、早めに起きて準備を全部すれば夜は何もしないで大丈夫、と根拠のない自信を持って、昨夜彼に宣言していた。伊集院からしてみれば、この光景は数え切れない程見ているのだから、いい加減自覚してくれないかと思うところもある。早起きが苦手なことは、一日まるっと計画したデートに遅刻してくる彼女を見て、よく知っている。一緒に住むようになってから、かなりの頻度で起こる朝の騒ぎもすっかり慣れていた。最初の方は自然と呆れ顔になっていたようだが、もう呆れることもなくなった。苗字は、伊集院が用意しておいたシリアルの袋を手に取り、皿を棚が出してテーブルに並べる。彼の名前を呼びながら、期間限定味のシリアルの袋を開けば、まるでポップコーンが弾けるようにテーブルの周りにシリアルが一粒ずつ散っていく。皿に乗ったシリアルももちろんあるが、時間に追われる彼女は気にも止めず、叫ぶ。 「ねえ、北斗!牛乳どこだっけ!?」 「名前、ちょっと落ち着こうね。いつものところにあるよ」 冷蔵庫以外にどこで保存するのか、と彼女に問いかけたかった伊集院だが、苗字はその時間さえも惜しいようだった。牛乳パックを持ってきた彼女の手から、お目当てのそれは一瞬で消える。着替えておいで、とウインクをした伊集院の手に既に渡っていたのだ。ごめん、よろしく、最低限の言葉を残した彼女は自分の部屋へと消えていく。慌ただしい苗字とは正反対に、余裕綽々な伊集院は彼女が座るであろう椅子に腰掛けると、ゆっくりと真っ白なアーチを作り出す。牛乳を注いでいるだけだというのに、絵になる彼の姿はまるでバーテンダーのようだった。 バタバタと足音がひっきりなしに部屋の中に響く。苗字は次のことで頭がいっぱいらしく、ワンピースの背中部分のファスナーが中途半端な位置で止まったままになっている。何もないところでハンドバッグをひっくり返しては、今度は車のキーがないと騒ぎ出す。伊集院は肩肘をついて、彼女の背中をじっくりと見つめている。下着がチラチラと見え隠れする背中は、色っぽくて、思わず手を伸ばしたくなるほど美しい。唇の跡をくっきりと付けると映えるかもしれない。今の彼女に言っても耳には入らないだろうが。それが分かっていたからこそ、伊集院は彼女の行く先を見守るだけだった。 昨夜二人でくっついてうたた寝をしていたソファーの方から、最近発売されたばかりの伊集院のソロ曲のサビが流れ出す。今の彼にはぴったりかもしれないが、苗字には似合うはずもない。艶やかで誘うような歌声に耳を傾ける暇もないのだ。キーを発見した彼女は、音楽を気にすることもなく、鏡に向かって目の辺りをしきりにチェックしていた。きっと、アイラインを引き直したいのだろう、そう思った伊集院は椅子から立ち上がると自身の曲に導かれるように歩を進めていく。音楽に合わせて歌い出したい気持ちもあったが、まずは彼女を家から出すことが先決だ。 「朝食の用意はできたよ」 「……ありがと!わああ、もうこんな時間!やっぱり昨日やっとけば良かったー」 その台詞も飽きる程に聞いていた伊集院は、ようやく鏡の前を離れた彼女の姿を目で追いながら、可憐さ、と歌った自分の声を消すために画面を起動させ、操作をする。電話でなく、メールを知らせるものだったから良かったが、これが電話だった時のことを思うとゾッとするのだった。余裕のない彼女が今、電話に出たとしてもまともな会話などひとつもできない。それに、お偉いさんからの電話であってもお構いなしのような彼女だから恐ろしい。 「北斗!」 「なにかな」 「あの、これ、ちょっと上げて。お願い」 物凄い早さでシリアルを口の中にかきこんだ彼女の姿なんて誰も想像しないだろう。外に出てしまえば、苗字は人が変わったようにしっかりした女になるのだ。家の中はこんなにも適当だが。 伊集院は、彼女の素肌に指を滑らせる。そんなに急がなくても、ちゃんと間に合うよ、と喉まで言葉が上がってきていたものの、それを口にすることはなかった。身体のラインが分かるようなセクシーなワンピースを着た彼女は、これから友達と出掛ける約束をしているらしい。遅れても友達ならきっと許してくれる、悪魔の囁きが伊集院を襲うが、彼は些細なことに動揺する男ではない。悪魔に囁かれなくとも、充分に分かっているのだ。少し離れた鏡には、伊集院と彼に身を委ねた苗字の姿がはっきりと映し出されている。外では立派な彼女でも、家の中ではいろいろとダメな女。伊集院はそんな彼女のことが好きだった。早く上げて、と彼を急かす言葉が飛んできても、伊集院はフッと笑って彼女に腕を回す。背中から抱きしめられるとは思っていなかった彼女は、間違いなく無防備で、抵抗する時間さえ与えられなかった。首筋に、唇をくっつけて満足した伊集院はファスナーをぐっと上げると、彼女の背中をトン、と優しく押した。本当はもっと長い時間、自分の腕の中に閉じ込めておきたいのをなんとか抑えて。 「名前、いってらっしゃい。楽しんでおいで」 「え、あっ、うん!いってきます」 「靴はもう選んであるの?」 「あー!!靴どうしよう!?」 玄関でひとり騒ぎ立てる彼女を見ながら、伊集院はクスクスと笑う。全部が予想できていたのに、最後まで念押ししないのは彼がこの光景を見たいと心のどこかで願っているからだ。しっかりしていない、ちょっぴりダメな苗字のことをかわいい、と彼は言いたいのだ。手を振る伊集院を残して、彼女は玄関の扉を勢いよく開けて飛び出していく。それはまるで、小学生が学校に遅刻しまいと家を出た瞬間に走り出すようだった。 Title:誰そ彼 Image song:ジッパー/Team N |