大学に通いながら稽古をこなすことにだいぶ慣れを感じてきた皆木綴は、ゆっくりと背伸びをしながら、キャンパス内の自動販売機の前で飲み物を選んでいた。今日は大学の講義があったために足を運んでいたのである。春組の公演は無事に千秋楽までを駆け抜け、今は夏組の公演へとMANKAIカンパニーは劇団全員で向かっている。時間の空いたとき、皆木は食事を作ったり、高校生組の勉強を見たり、脚本の勉強をしたりと稽古以外も大忙しだ。しかし、彼の監督である立花いづみもまた、彼以上に毎日忙しそうに走り回っているのを皆木は目にしている。自動販売機に並ぶ飲み物をひと通り指でなぞると、皆木の首筋を汗が流れる。初夏とはいえ、暑さは容赦なく、彼の通うキャンパスでも冷房の使用が解禁されていた。講義が連続で行われている教室であれば、充分に部屋が冷えているのだが、運悪く誰も使っていない部屋に当たると、密閉されていた部屋は過ごしにくくて堪らないものだ。皆木が先程まで講義を受けていた部屋は、席取りのために早く部屋に入った彼が冷房のスイッチを最初に押していた。バッグから取り出したタオルで首回りを一周拭いても、汗はまた吹き出す。拭っても拭っても気持ち悪さが取れずにいたが、それは教室の外に出ると一層強くなっていた。ガゴン、と音を立てて落ちた缶を手に取ると、一瞬で皆木の手を冷却スプレーでもかけたかのように冷やしていく。冷たくなる手とは逆に熱いままの身体を震わせて、自動販売機に背中を向けると、そこには彼と同じ学部の女子が立っていた。びっくりした皆木だったが、すぐに名前を呼ぶ。 「びっくりしたよ……苗字さん」 「えへへ、皆木くん、お疲れさま」 皆木の隣をすり抜けていくように自動販売機に向かった彼女の背中を見ていると、鞄の中に手を入れた苗字が彼を一瞬だけ振り返る。いきなりこちらを向いた相手に再度驚かされた皆木は、目が合ったような気がして、缶のプルタブを引っ張ると空を見上げた。彼女の背中を見ていたとき、自然とうなじを見つめていたのだ。暑さを少しでも和らげるためにか、彼女は髪の毛を纏めていたのである。太陽の下に晒された白い肌をいつの間にか食い入るように見つめてしまっていた自分に気づいた皆木は、気を逸らすために彼女を視界から外したのだった。 「皆木くんこの味だったから、わたしは別の味にしたよ」 てっきり見つめられていることを抗議されると思っていた皆木は、彼女の声を聞いてなんとも情けない声を小さく上げる。苗字が一瞬振り返ったのはこちらを見ないで、ではなく、彼が持っているジュースの種類を確かめるためだったようだ。多大なる勘違いに恥ずかしさを覚えた皆木だったが、うなじに見入っていたのも事実なため、彼女と今、目を合わせるのは憚られた。不思議に思った苗字は、自分の持っているジュースをひとくち飲むと、それを彼の前にグイッと突き出す。既に自分の持っているジュースの缶に口をつけていた皆木は、思わず缶を持っている方の手を自分側へ引いた。男の友人だったのなら、遠慮することなく、缶を交換して両方の味を楽しんだだろうが、皆木の前にいるのは女子だ。更にいうと、彼が片想いを募らせている相手でもある。それが、余計に皆木の行動を狭めようとした。 「どっちも美味しそうだよ?」 「そ、そうだな」 皆木の空いている方の手に苗字が缶を握らせる。彼女はそのまま、駅の方面へと歩き出した。彼は、先程と同じように彼女の背中を追うようにして見つめる。自分より幾分も小さな彼女は、学部の中でも割とおとなしめの女子だ。女の子らしい服装を好むようで、そのファッションは度々キャンパス内でも話題になり、人目を惹いた。いわゆるお嬢様、というような雰囲気だった。皆木が所属する劇団に、茅ヶ崎至という男がいるが、その男と並べるとパズルのピースがぴったりはまるというくらいには似合うと彼は思った。本性を知る者は少ないが、外向きの格好は王子様という言葉がしっくりくる。それに比べれば、皆木はファッションにそこまで拘りはなく、どちらかというとほんのりお洒落で動きやすい服装だった。今でも、彼女と一緒に歩くことが周りからどんな風に見られているか気になって仕方がない。 大学から近い駅が見えてきたところで、スカートを翻すようにして苗字が振り返る。皆木が持っている二本の缶はすっかり、増すばかりの彼の熱で冷たさを失いつつあった。早く飲まないと冷たくなくなっちゃうよ。そう、ぷるるんとしたくちびるが言葉を紡ぐ。桃のようなピンク色に染まったくちびるはひどく扇情的で、これからどこかに誘われてしまうように彼には思えた。彼女が口を開く度に、舌が覗く。柔らかそうなそれは、皆木の目を離さない。 「皆木くん?」 苗字は皆木の躊躇いの理由に全く気付いていないようで、一向に口にしない彼に首を傾げる。これ以上、彼女に不信感を抱かれるのも嫌だと思った皆木は、苗字が持たせた缶の方を口に当てた。少しばかり、桃の香りがする。数分前に、彼女のくちびるがここに触れていたことを思うと、身体中が別の熱さにやられたように火照り出す。おかげで、ジュースの味なんてひとつも分からなかったが、平静を装いながら彼女に缶を返した。 「美味しかったでしょ?」 「あ、ああ」 「わたし、この味好きなの」 缶を彩る鮮やかな赤は、味通り、林檎を思わせるものだった。その色よりも色素の若干薄い色は皆木の手に収まったままだった。交換して飲むはずが、皆木がなかなか次のステップに踏み出せなかったため、苗字はもう一つの味を堪能することができずにいた。皆木は缶を差し出そうとするが、自分たちが既に駅に到着していたことに気づく。 「皆木くんは逆方向だったよね」 「苗字さんとは反対だな」 「じゃあ、ここで。また、大学でね」 くるり、と皆木に背を向けた彼女は夏の強い陽射しの中を歩いていく。彼女も充分暑いはずだが、それを全く思わせない程には涼しい歩みであった。皆木は自分で買った缶を見ながら、駅のホームへと足を進める。ピンク色の缶を買ってしまったのは、今日の講義の時にたまたま目に入った彼女のくちびるを見たからだったからなのか。それとも、単に桃の味を欲していたからなのか。彼には、もう分からなかった。先程の林檎味でさえ、もう舌は感じ取れないほどには感覚が痺れていた。ただ、残ったのは彼女のくちびるから缶を通じて掠めた桃の香りである。自分の持っている缶を口にする度に、桃味のものと出会う度に、彼女を思い出してしまいそうだと思った。 ホームに立った皆木の後ろから、偶然その場に居合わせたであろう彼の友人が背中を突く。さっき、お前、意中の苗字さんと歩いていただろ、そんな風にからかわれる。顔を必死にして否定したところで、彼の友人は全てを知っている。ああ、そうだよ、と半ばヤケクソに吐き捨てて、線路を挟んだ反対側を見やる。すると、彼女が皆木の方を見ていた。それに気づいた友人は皆木の背中を思いっきり叩く。ピンク色の缶の中で、甘い香りが揺れた。 手持ち無沙汰になっていた手をゆっくりと上げて、ぎこちなく手を振ってみれば、微笑んだ苗字が皆木に向かって手を振り返していた。その瞬間は切り取られた二人の時間のようだった。二人の間を、すぐに電車が遮ってしまったものの、皆木は缶のジュースを一気に飲み干して、ホームのゴミ箱に投げ入れると両手で頬を叩く。いつまでも、片想いのままではいけない、そう自分に喝を入れるように。二本の電車は、皆木と苗字をそれぞれ乗せて、互いに反対方向へと進み出した。 |