皆木は苗字と約束を取り付けた。兵頭が勧めてきたケーキ屋に彼女を呼んで話をして、謝る作戦だった。綺麗に洗ったタオルからはすっかり汚れが消えていて、まるで新品のようだ。今日、皆木が寮を出るとき、団員全員が彼を見送った。それぞれ彼ららしい言葉で、皆木は元気も出た上に、勇気も湧いてきた。終わってしまったことは仕方のないことなのだから、自分が前へと踏み出すためには今日をしくじらないことが大切である。彼女と買い物に行ったときの洋服を身に付けて、少しばかり膨らませた財布と伏見が撮影した写真が入っている封筒を持って、彼は玄関を出た。
人混みに紛れて歩く皆木の足は、目的地に近づくにつれて、どんどんと速度が落ちていく。彼女を泣かせてしまったこと、自分の軽率な行動が彼の頭の中から離れることがないからだった。スーツを着た男性、カップル、と隣をすり抜けてようやく視界が開けた彼の目に真っ先に飛び込んできたのは、約束の場所より随分手前で鞄をぎゅっと握ったまま、立ち止まっている苗字の後ろ姿。皆木の足もついに止まる。なんと声を掛けていいのか分からないのは当たり前だったが、彼は立ち止まっているままではいけないと重い足をなんとか踏み出す。



「……苗字さん」
「っ!み、皆木くん……」



皆木が名前を呼ぶと、苗字はびくりと肩を震わせる。その反応は彼の心の傷を一層抉っていく。まずは頭を下げて謝ることが先決だと思った皆木の手を、彼女がぱっと取る。彼の手首を掴んだ彼女の手の震えは、皆木に充分伝わっていた。苗字は彼を人気のない路地へと引っ張っていく。約束だったケーキ屋は遠退いていくが、皆木は何も言わずに彼女の後をおとなしくついていく。ケーキ屋では人目があるため、彼女に都合の悪いことがあるのかもしれない。一発、頬を殴るのか。それとも、この前の皆木のように怒号を飛ばすのか。皆木はいろんなパターンを想像していたが、彼女がそんなことをするとは到底思えなかった。二人が歩いた先の路地は冷たく、暗く、ネコの溜まり場と化していた。人間の気配を察知したネコたちはその辺りに転がっているダンボール箱や、廃棄された家具の裏に隠れる。



「皆木、くん」



近くにあった台の上に足を運んだ苗字は、皆木との背の高さの違いを縮めていた。やっぱり、俺は一発殴られて終わりなんだ。そう思った彼は、せめて彼女の綺麗な顔が怒りや悲しみで歪むのを見ずに済むようにと、目を閉じた。傷が、平手打ちで済むわけではないと分かっているが、彼女の気がそれで済むのなら。皆木が目を閉じたことに驚いた苗字は、まさかの事態に息を呑んだ。思わず出てしまいそうな声を必死に押さえる。自分の気持ちを正直に伝えなかったことで、彼に悪い思いをさせてしまったことを悔いていた彼女は、今度こそ真正面から言おうと思ったのだ。皆木が好意を持っていることに薄々気づいていて、とても嬉しかった。彼女も同じ気持ちであったからだ。一緒に写真を撮るときも、いつ皆木に気づかれるかと高鳴る鼓動を懸命に隠していた。



「つづる、くん」



目を閉じたままの皆木の耳に入ってくるのは、彼女が呼んでくれる名前だった。心地良い響きであることは今でも変わらない。それは、苗字のことが本当に好きであることを皆木自身に知らしめた。ごめんね、と小さく聞こえてきた声に皆木は理由を考えようとしたが、それをすることはできなかった。謝る理由よりも、今起こっている現実に意識を全て持っていかれてしまったのだ。優しく、甘い桃の香りが皆木の鼻を擽る。彼女と話をするときに、いつも見てしまうぷっくりとしたくちびるが自分のそれに当たっていると気づく。殴られるわけでもなく、罵声を浴びせられるわけでもなく、キスを皆木は苗字にされたのだ。両肩に置かれた手を振り払うこともできない。ただただ、彼女の香りに酔いしれるように彼は目を瞑っていた。



「わたしの態度で、傷つけてごめんなさい」
「ちがっ、違う!俺が勝手に勘違いして、苗字さんに酷いことを……!」
「綴くんは」
「お、れっ、本当にすきなんだ、名前ちゃんのことが!この前のこと、謝っても許されないかもしれない。でも、この気持ちは、本当だから……!」
「……わたしだって本気なの、信じてもらうために、さっきの、あの」



台の上の苗字を抱き上げる勢いで皆木は、その身体を引き寄せる。これ以上、彼女の表情を見ていられなかったからだ。今にも泣きそうな顔を見ると、皆木の胸は痛む。抱き寄せられた苗字は、少し躊躇いがちに皆木の背中に手を回した。そして、堪えていた涙は溢れ出す。誤解から生まれた亀裂がゆっくりと修復されていく瞬間だった。付き合ってください、皆木が彼女の耳元で囁く。返事の代わりにコクコクと頷いた苗字の頭を撫でる皆木は、幸せを噛みしめながら笑った。
名前ちゃん、綴くん、互いの名前を呼びながら手を繋いで歩く二人の後ろ姿をたまたま見かけた立花は、スマホを取り出す。ケーキ屋に行くと聞いて気になっていたので、買い物ついでにこの辺りを歩き回っていたところだった。嬉しそうにその写真を保存した立花は、後日、三好と伏見に協力を仰ぎ、たんぽぽをイメージしたフレームに写真を入れ込み、彼らにプレゼントしたという。

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