ケーキとドリンクのセットを頼んだあと、名前ちゃんは、財布を鞄にしまいながらカウンターの向こう側で店員が用意している光景を眺めていた。レジ前で注文した時に、違和感なく俺は財布を取り出せていただろうか。彼女が鞄の中から財布を出そうとしている間に会計を済ませることばかりで頭がいっぱいで、スマートにこなせたかどうか分からないのだ。わたしの分のお金、と差し出してきた彼女には、俺が奢るからと半ば無理矢理に押し切った。こういう時は、どういう風に振る舞うのが正解なのだろうか。
甘さ控えめのケーキを頼んだ名前ちゃんは、カウンターに両手を引っ掛けると、まるでピアノでも弾くかのように指を動かし始める。ソワソワしている彼女に、意外と子どもっぽいところがあるんだなと思った。人気のない路地からここに来るまで、俺の勘違いや彼女の家族のことについて順を追って話をしていたので、これまでの蟠りは消えていた。当初はその件をケーキ屋で話す予定だったが、もうそれは決着がついている。となると、俺はこれから彼女と二人きりでどんな話をすればいいのだろうか。向き合うだけで緊張しそうなのは、これまでの関係から彼氏と彼女という関係にレベルアップしてしまったからだろう。もう、店員が大きなトレイに二人分のセットを準備してしまった。お待たせいたしました、その言葉と共にトレイを受け取ると、名前ちゃんがあの席空いているよと俺の袖を引っ張る。彼女の人差し指の先には観葉植物があって、ここからだとあまりよく見えない席だった。店員も確認し辛いだろうなと思える場所だ。



「運んでくれてありがとう」
「運んだだけだから」



鞄を足元の籠に入れた名前ちゃんは、俺がテーブルに下ろしたトレイからそれぞれ注文したケーキとドリンクを分けていく。ありがとう、と言おうとした瞬間に彼女は席から立ち上がると、テーブルから離れていく。何か足りない物でもあっただろうかと思っていると、小さな紙ナフキンを何枚か手にして、こちらへ戻ってきた。しまったなあ、と思ったのが顔に出ていたようで、彼女がクスクスと笑う。結構、感情が顔に出やすいタイプだから気をつけないと、とは思うけれど、なかなか上手くいかない。それもこれも全部、彼女と一緒にいるせいもあるかもしれない。
気持ちの良いくらいに綺麗に空いたストローの袋を、小さく折り畳んだ名前ちゃんは、グラスにストローを差し込む。ウーロン茶に浸された氷がカランカランと音を立てる。見た目のイメージで、いつでも紅茶を口にしていそうなんて思っていたのは秘密だ。ストローにくちびるを寄せた彼女を見てふと思い出したのは、勢いとはいえ、名前ちゃんにされたキスのことだった。小さく窄められたくちびるが触れた自分のそれに、中指で一瞬だけ触る。何が起こったか頭の中で整理整頓できないままだったあの時とは違って、今はキスされたことだけに集中できてしまう。それは俺には逆効果だった。店内はクーラーや扇風機が完備されていて過ごしやすい室温になっているはずなのに、ぐっと上がる体温に思わず手を団扇にするようにして仰いだ。顔が赤くなっていたら、名前ちゃんに変な目で見られてしまうかもしれない。それだけはなんとしても避けたいことだった。ぱちり、不思議そうな目をして、ちゅう、とストローを吸う彼女が目に入る。



「……あのさ、名前ちゃん」



何もないように装って、その場を誤魔化そうと必死に紡いだ言葉がこれだ。適当に発した言葉だから、この後に続く言葉なんてない。喉を震わせた名前ちゃんは、首を傾げる。何か、何か、話題を振らないと。分かっていても出てこない言葉に焦るばかりで、結局俺は頭の中を占めていることを口に出してしまう始末だった。



「……俺に、キスした、の」



ひゅっ、と息を呑んだのは俺だったのか、それとも彼女だったのか分からない。公共の場で、一体どんな話をしようとしているのだろうか。幸いにも、近くのテーブルには客がいない。それだけが救いだった。
大学生にもなれば、彼女を作った時の理想をあれこれと想像するのは普通のことだろう。周りの男友達だって、彼女とのエピソードを語ってくる奴だっている。いわゆる惚気話だが。軽い内容もあれば、かなりデイープな話も持ち掛けてくるので流石に付き合いきれないと思ったこともある。俺だって、彼女ができたらあんなことしたいなっていうのはあった。彼女からしてもらうキスもいいけど、俺からできたらいいな、とか。彼女との接触があったおかげで、そんなことを思い出していた。男として、俺からキスしたい。そう、辿り着いたのはそれだった。



「……あれは、だから、その」
「……ごめん。分かってるよ。だけどさ」
「うん」
「男として、俺からしたいとか言ったら……っ、やっぱり!今のは、なし!なしで!」



俺からくちびるを寄せれば、彼女はどんな表情を見せてくれるのか。赤面した余裕のない顔を想像しただけで心臓が大きく音を立てるのが分かる。目を合わせて喋っていたのに、いつの間にか俺たちの目は合わなくなっていた。ケーキに目を落としてしまった彼女は、自分を落ち着けようとしているのか自身の身体をあちこち触り出す。指を遊ばせてみたり、頭や髪の毛を触る。そして、片耳に髪の毛を掛けた。その仕草がとても艶やかで、思わず唾を飲み込んだ。ほんのりと赤くなった耳が覗く。えっ、この話題でそんなになるのに、よく俺にキスできたな、と思うと同時に彼女も必死だったことがよく分かった。
俺の前にあるドリンクやケーキはまだひとつも手が付けられないまま残っている。彼女の方は、ウーロン茶が少し減っただけ。キスの話題を出した俺たちは、互いに固まってしまって、カフェを楽しむどころか話すらまともにできやしない。この関係になる前までは普通にできていたことが、すっかりできなくなってしまっていたのだ。フォークを手に取った彼女は、端を切り分けると、少しだけ顔を上げる。瞳が若干上向きになっていて、ほんの一瞬だけ邪な気持ちを抱いたけれど、それは許して欲しい。だって、俺も男だ。



「……ここじゃ、ダメ」



彼女は確かにそう言った。俺から視線を逸らしてケーキを口に運んでいく。今の言葉をそのまま受け取ると、この場所では駄目だから、の続きは言葉にはなかったが、他の場所だったらいいという意味がくっついてくるように思えた。もぐもぐと口を動かす彼女はそれ以上、何も言わなかった。いきなりがっつくのは引かれてしまうかもしれない、心の片隅で思っていたことが跡形もなく消え去った気分になる。どこだったらいいのか、そう尋ねたくて仕方ない。でも、俺の部屋は絶対に無理だ。真澄もいるし、あの劇団員の寮に彼女を連れ込むなんて考えられない。とすると、彼女の部屋、家か。ああ、もう、俺、何考えてるんだろう。ただの男だ。熱をどんどん上げる身体を冷ますようにドリンクを流し込んだ。
わたしの家、来ますか。呟かれた言葉を聞き逃すことはない。えっと、と言いながら顔を上げると彼女がケーキをひとくちサイズにしてフォークごと差し出している。これを食べたら、きっとYesの意味が伝わる。ここで引いたら、男が廃る。おずおずと口を開ければ、真っ赤になった彼女がぐっとケーキを近づけた。だからさ、そういう表情はこんなところで見せたら駄目だって。

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