「綴、名前、こっちだ」 「臣せんぱーい、ご飯はどうします?」 「午後の講義は二人ともないだろ?まずはお昼にするか」 「今日は時間がたっぷりあって良かったです」 指定された場所を陣取るように伏見さんは既にセッティングに入っていた。苗字さんは、その近くにあった簡易テーブルの上に、鞄から取り出した弁当箱をゆっくりと置く。彼女の物ともうひとつ置かれているのは見覚えのある弁当箱で、きっと伏見さんが用意してきたものだろう。用意周到だな、伏見さんは本当に。苗字さんの弁当箱は、男には圧倒的に足りない量しか入ってなさそうな大きさだった。普段から男所帯に慣れているために、量が心配になる。あれだけしか食べないから、こんなにも細いのか。伏見さんは俺たちが隣同士になるように考えて腰を下ろす。俺も自然であるように心掛けて、彼女の隣へと座る。小さく歌を口ずさむ苗字さんが、上機嫌に蓋を開けていく。あれ、この、歌は。 「その曲……!」 「実はね、春組の演劇見に行っていたの。ごめんね、黙ってて。その時に、高校生くらいの子ふたりが歌っていた曲、ずっと頭に残ってて」 「そ、そうなんだ……ってことは俺の演技も」 「うん。バッチリ見たよ」 「良かったな、綴」 咲也と真澄が歌っている曲だ。ロミオとジュリアスの台詞の掛け合いから始まって、そのまま歌へと入っていく。確かにメロディーが頭に残りやすい曲かもしれないが、彼女の心の中に春組の演劇が残っていることがとても嬉しかった。単純、と言われてもいい。伏見さんが俺の方を向いて、そう言わんばかりに笑っている。でもきっと、伏見さんのことなので劇団全体としても喜んでいるのだろう。 伏見さんの作ってきた弁当は男二人の空腹を満たすには充分な程の量が詰められている。弁当をつつきながら、チラチラと苗字さんの方を盗み見ていれば、その何度目かで目が合ってしまう。思わず何か話題を振らなくてはと、口を開こうとすると、彼女は箸で伏見さんの弁当箱にあった物と自分の弁当箱にあった物を交換する。 「臣先輩のご飯、本当に美味しいの……羨ましい」 「練習すれば作れるようになるぞ」 「皆木くんはいつでも食べられるんでしょ、いいなあ」 会話をする彼らを余所に、俺は苗字さんの作ったであろう卵焼きをじっと見つめていた。伏見さんのご飯は確かに非の打ちどころもないくらいに美味しい。でも、好きな子の作った物というのはやっぱり特別なのだ。美味しいとか美味しくないではない、彼女の手作りという要素が一番。会話に夢中になっている彼らに気づかれないようにと、苗字さんの卵焼きに箸を伸ばす。 綴、名前を呼ばれた俺の箸は惜しくも卵焼きに触れることはできず、虚しく空を仰ぐ。伏見さんは写真のことについて相談したいらしく、その事を振ってきた。彼女の卵焼きは弁当箱の中にあるままだ。彼女は食べないだろうが、伏見さんに取られてしまう可能性はある。 「綴はカップルっていうと、どんなことが思い当たる?」 「そ、そうっすね……定番かもしれないけど、手を繋ぐのとか」 「写真映えはしそうだな」 「臣先輩はどこまでわたしたちにさせるんですか?」 「俺は別にそんな無理強いはしないけど、カップルらしい写真が撮れたら満足だな」 「え、じゃあやっぱりハグとかした方がいいです?」 「ははは、そこまでするか」 「抱き合うってことっすか!?」 「綴、そこまでは言わないさ。腕組み、とかはいいかもしれないけどな。名前は何かしてみたいこととかないか?せっかくのモデルだし、ベタなことでも綴はやってくれるかもしれないぞ」 「伏見さん……」 「そうですねー、女の子の夢といえばお姫様抱っこ、かな?」 意外にもメルヘンな答えが返ってきたなあ、と他人事のように一瞬考えたが、これは俺と苗字さんがやることだ。今日の彼女の格好は、イイところのお嬢様の雰囲気を醸し出しているから、妙にリアルだろう。こんなことなら、今日の服装はもっとカッコいいものにすれば良かった。動きやすさを重視した結果の服装だから、彼女の夢見る王子様には程遠いのだ。はあ、と大きな溜め息をつくと、皆木くんは嫌かもしれないよね、と彼女が焦ってその案を消そうとしたので、勢いで大丈夫だからと大声を出す。ニヤニヤとしている伏見さんは楽しそうだ。 「よし、じゃあ始めるぞ」 その勢いに乗ったまま、彼女の卵焼きを口の中に放り込むと、伏見さんはまるで俺のことを待っていたかのように弁当箱を片付け始める。苗字さんも伏見さんの行動につられるようにして、弁当箱を鞄の中にとしまう。 伏見さんの立派なカメラは寮でも何度か見たことがあったが、レンズを向けられると今日は余計に緊張するのだった。苗字さんは髪の毛やメイクを確かめるために、鏡と睨めっこしている。女の子は大変だ。 「綴、そこに立ってくれ」 伏見さんに指差された場所に立つと、身なりを整えた苗字さんがすぐに隣にやって来て、俺の方を向く。これは何度もあったシチュエーションだからまだ余裕がある。伏見さんが、カメラの調節と、光の当たり具合を考えながら細かく指示をくれる。準備中の伏見さんを見た苗字さんが、俺に聞こえるくらいの声でこっそりと呟く。綴くんの彼女役がわたしなんかでごめんね、と。まさかの言葉が飛んできたものだから、必死に首を横に振る。むしろ俺なんかが彼氏役でごめんと言いたい。その台詞を口にする前に、じゃあここからポーズをいくつか作ってくれ、という伏見さんの声が聞こえてくる。 男の方からリードしなくちゃという思いから手を伸ばすと、その手が彼女のそれへと届く前に逆に掴まれて、こっちを握ってと言わんばかりに誘導されていく。突然のことに俺だけの時間が止まったような感覚だった。気づいたら彼女の手を握っているではないか。今朝とは違って、本物のカップルのようにいわゆる恋人繋ぎという形になっている。指と指の隙間一つひとつから、彼女の細い指がするりと通り抜けてきて、綺麗にネイルされた爪が手の甲を擽った。熱が込み上げてくるのもあっという間で、彼女の顔を見ることができない。気を抜いたら、呼吸が乱れそうだ。シャッター音だけが遠くの人間の声、風の音に紛れて聞こえてくる。 「もっと自然な表情撮りたいし、リラックスするためにも適当にその辺り歩き回ってくれ。俺がいいタイミングで何枚か撮ってみるよ」 「はーい。皆木くん、わたし合わせるから」 「あー、うん……」 歩くという行為だけでこんなにも緊張するとは思いもしなかった。苗字さんのヒールの立てる音がコツコツとリズミカルに響く。一方の俺はというと、リラックスするどころか、ますます表情や動きが硬くなっているような気がしてならない。これでは伏見さんに応えられないし、苗字さんには迷惑を掛けるだけだ。暗い気持ちに引き摺られるようにして、足が止まってしまう。急に立ち止まった俺の前にさっと現れたのは、先程まで隣を歩いていた彼女だった。恋人繋ぎをしていた手を持ち上げられ、反対の手も掴まれる。彼女の手で包み込まれた俺の両手から、なんだか緊張を解くようなあたたかさが伝わってくる。まるで、小さな子どもが年の離れたお姉さんに安心感を与えられているかのようだった。 「今の良かったな」 伏見さんの言葉で、ふと我に返った俺の前で苗字さんが満面の笑みを浮かべていた。目が合ったと思えば、シャッター音がもう一度響く。俺としては格好いい所をひとつとして見せることができなかったけれど、納得のいく写真が撮れたのなら良かった。ようやく肩の荷が下りた気がする。彼女に触れるということがどれだけ緊張するのかを身をもって経験できたし、それだけ苗字さんのことを意識しているのかが分かった。恋人繋ぎをした感触も、未だに自分の手に残っている。 「臣先輩!わたしたち、ちゃんとカップルでしたか?」 「ああ。さっきのは本当にカップルのようだったよ」 「やったね、皆木くん!お姫様抱っこは本当の彼女にしてあげてね、ふふ」 さっきの恋人繋ぎは緊張したけれど、彼女に触れられて心地良かったのも事実だ。あんなにも心を掻き乱されたのも確かである。それは相手が彼女だから。苗字さんだからこそ、自分が冷静でいられなくなって、心臓が騒ぎ出す。高鳴る心臓は未だにまだ煩いくらいだ。本物の彼女にしたいのは、目の前で笑っている彼女なのに。苗字さんになら、お姫様抱っこを何度だってしたいと思うのだ。手を繋ぐことだって、隣を歩くことだって、なんでも一緒にしたいと思う。 「……つ、綴、くん」 言葉にならない声が漏れる。さっきまで皆木くんと呼んでいたはずの彼女が、俺の名前を静かになったこの場で呼んだのだ。心臓をぎゅっと掴まれて、身体の全てがたったその一言で支配されてしまったように感じる。誰にでも呼ばれている名前が、特別な人に呼ばれただけで世界が変わったような気になるなんて。 「もし、もしね、皆木くんの彼女だったらこう呼ぶかなって。ちょっとまだカップル気分に浸っちゃった!」 「あ、あの……!名前、ちゃん」 「えっ」 「嫌じゃなかったら、俺はそう呼んで欲しい、かな」 「……わたしも、そう呼んで欲しい、な」 |