傘をさした皆木は、キャンパス内を目的もなくフラフラと歩き回っていた。水溜まりに何度も足を踏み入れたせいで、彼のズボンの裾の色は変わっている。談話室で告白をするしかないのかという結論にたどりついてからというもの、劇団の仲間は顔を合わせれば告白したのかと皆木に質問を浴びせていた。皆木は未だに告白できていないというのに。 建物から姿を現したのは、皆木が今か今かと待っていた苗字の姿だった。意を決して、足を踏み出そうとすれば、彼女の隣に長身の男が現れる。皆木はタイミングを失ったように、その場から動けずにいた。男は苗字の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら笑うと、キラリと光る何かを渡す。皆木はそれが何か分かってしまった。苗字は大学の正門から出て行くと、駅方面とは真反対へ歩いて行く。舞い上がっていたような彼は途端に恥ずかしくなるし、目頭が熱くなっていた。銀色に光る小さな物は、確かに鍵だった。それにあの長身の男は、皆木たちが通う大学の教授だ。苗字の姿がぼやけて見えつつも、その後をこっそり追っていく。もしかして、の想像が止まらない。名前まで呼んでもらって、触れたこともあるのに、彼女には既に別の男がいたのか。もう、皆木は悪い方向にしか考えられないくらいには冷静でなかった。彼氏がいるのに、俺に気があるみたいなフリするなんて。今日、雨で本当に良かったと思いながら皆木は傘で自分の視界を覆う。彼女の足だけが見えるようにして。 「まってたー!」 「お迎えに来たよ」 幼稚園から飛び出してきた小さな子どもが苗字の足にぴったりとくっつく。幼稚園の先生が慌てて鞄や帽子を持って追いかけてきていた。刹那、皆木は道を引き返す。傘を畳んで、全速力でとにかく走った。ズボンの裾だけでなく、もう全身がずぶ濡れになるくらいに。駅にたどり着いた時には、乱れた髪の毛からぽたりぽたりと雫が落ちていた。鼻を啜った皆木は、両手を額に当てると自分の足元だけを見つめる。彼女は母親だったのか。ということは、あの教授は父親。おおよそ、鍵を忘れて借りて帰るといったところであろうか。皆木の推理は嫌なほど鋭く働く。 カエルの鳴き真似をする子どもが駅へと駆け込んでくる。あのくらいの子どもだったら、恋愛で酷く傷つくことなんてないんだろうな。皆木が大きく息を吐いていると聞き慣れた声が聞こえてくる。少女を呼んでいるようで、彼女が皆木の前でくるりと振り返った。 「ねー、名前ちゃーん、このおにいちゃん、びしょびしょだよ!」 「えっ、皆木くん!?どうしたの!?このタオル、使って」 いつもの皆木だったら、赤くなる顔を隠しつつタオルを快く受け取っただろうが、今の彼にとっては傷口に塩を塗るようだった。大丈夫っす、とぶっきらぼうに呟けば、そんなことないでしょ、と苗字が皆木の頭にタオルを被せて水滴を拭き取ろうとする。その瞬間、タオルと一緒に彼女の手を振り払った皆木はすっと立ち上がると、彼女を壁際まで追いやった。親切心から彼女がタオルを差し出してくれていることも充分、彼は理解していたものの、もう大人ではいられなかったのだ。カエルの鳴き真似を続ける少女は、駅の端で発見した本物のカエルを興味津々に覗き込んでいた。苗字の左肩の上辺りの壁をダン、と叩いた皆木に驚いた彼女は身を竦ませる。 「苗字さん、俺にもう優しくするな……!」 「ま、待って、なんで……そんなこと言うの」 「俺の気持ち分かってて、遊んでるんだよな!?そういう人だって、思わなかった。結婚してて、子どもまでいるなんて!」 「皆木く、」 「俺、苗字さんのこと、すきだったのに……!」 じっと見つめた皆木の瞳には、涙を零す苗字の姿があった。泣きたいのはこっちだ、と吐き捨てるように言葉を投げつけ、皆木はもう一度、壁を叩きつける。この後に及んでも魔性の女の姿を見せている彼女に腹が立って仕方ないのもあったが、半分は失恋した行き場のない気持ちをコントロールすることができない自分自身に怒りが込み上げてきていたのである。 すると、皆木の裾を少女がぎゅっと引っ張る。それはまるで、自分の弟や妹がするようにそっくりで少しだけ彼は冷静になれた。無邪気な顔で皆木を見上げる少女は、泣いている苗字のことに気がつくと、彼の太腿辺りを子どもなりに精一杯の力で叩いた。 「名前ちゃんをなかせた!わるいおとこ!パパにいいつけてやるー」 「ああ、もう、どうにでもしてくれ」 「悪く、ないの。お姉ちゃんは大丈夫だから」 「だって、名前ちゃんはパパが、だいじな、いもうとっていってたもん。わたしも、いもうとだいじだから、わかるよ!」 「えっ、妹?」 皆木の傍を離れた少女は、苗字のことを守るように彼の前に立ち塞がる。穏やかな人だと思っていた皆木があまりにも声を荒げて、まるで別人のように彼女の瞳には映っていた。その場に蹲るように座り込んだ苗字は、肩を揺らしながら涙を流し続ける。恐喝されたような気分だったのだ。自分が勘違いさせてしまったことも悪かったが、それ以上に今の皆木綴という男が恐ろしかった。 一方の皆木は、少女の言葉で全てが勘違いであることに気づいて、青ざめていた。この少女はあの教授の子どもで、教授の妹が彼女だったということだ。気づいた時にはもう遅い。皆木は全ての胸のうちを吐き出した後なのだ。手を伸ばそうにも、その手を途中で引っ込めてしまう。今の自分には彼女に手を伸ばす資格などないのだから。 電車がやって来たことを知らせる音楽がホームに響き渡る。ハンカチで目元を押さえた苗字は、少女に声を掛けると皆木の姿を見ることもなく、電車へと姿を消した。その後ろ姿は酷く痛々しく、彼らのやり取りを見ていた周りの人間たちは皆木をチラチラと見やる。その場で動けなくなるのは、皆木の番だった。軽蔑の瞳が突き刺さった彼は、頭を冷やすために近くのベンチに腰掛ける。物事を深く考えなかった自分の落ち度だ。頭にきたとしても、あんな風にぶつけなくても他にやり方はあっただろう。それに冷静に考えれば、学生で結婚している人はそんなにいないし、もし母親であれば皆木と過ごす時間もなかっただろう。家のことで手一杯に決まっている。順調だった道をめちゃくちゃにしたのは自分なのだ。皆木は、落ちたままのタオルを拾うとそれを顔に押し付ける。地面に落ちて、真っ白なタオルが黒く汚れていることも厭わずに。 「最低だ……」 立花がおかえりと皆木を迎えたが、彼の顔はところどころ泥でも被ったかのように汚れていて、洋服もびしょ濡れであった。まさか告白で玉砕したんじゃ、なんて心配する彼女を余所に、皆木は淡々と事を進めていく。濡れた服は洗濯機に突っ込み、新しい服をタンスから持ってくると風呂へと一直線だ。苗字が残していったタオルも持って。 「……臣くん」 「どうかしたか、監督?」 「綴くんの様子がおかしいの」 「ああ……綴、帰ってきたか。実は名前からこんなLIMEが」 談話室にちょうど姿を現した伏見の後ろにいた斑鳩がおにぎりの形を手で作りながら、立花の不安そうな顔を見て、どうしたのと声を掛けた。ソファーに腰掛けている有栖川は、隣で今にも眠りそうな御影にマシュマロを与え続けている。立花の後ろではうずうずする碓氷が落ち着きなく、歩き回っていた。 苗字から送られてきたLIMEを立花と伏見が見ていると、古市と兵頭が談話室に入ってきた。兵頭は一目散に冷蔵庫に向かって行ったところから、甘味を食べようとしているのが分かる。古市はというと、深刻な顔つきの立花の隣にゆっくりと腰を下ろした。伏見のスマホを見せながら、立花は今の状況を周りにいる団員に説明していく。買い物に出掛けていた瑠璃川やシトロンも、談話室に集まって会議をしているような雰囲気に引かれて、自室に戻ることなく、足を止めていた。 「オ〜、つまりツヅルは勘違いをしたネ?」 「なにやってんの、村人C」 「まあまあ、こういうのは甘酸っぱい青春というものだよ。詩興が湧いてきそうだ」 「つづるは落ち込んでるの〜?」 「カントクにこんな顔させるとか……」 「相手も気にしているなら、皆木がきちんと話せばいい。それで解決だ」 「左京さん、綴くんも話したいはずですけど、やっぱりこうなると難しいですよ」 「名前も話をしたいけど、どうしていいか分からないって言ってるな」 兵頭はテーブルに座って、最近出来たばかりのケーキ屋の菓子を口に頬張りながら彼らの話を聞いていた。御影はマシュマロを与えられなくなったことによって、すっかり夢の中である。談話室の沈黙は大変気まずいもので、風呂から上がってきたあとにやって来るであろう皆木へのフォローを考える時間は、それほど彼らには残されていない。瑠璃川は、銭ゲバヤクザの言う通りだと同意する。確かに二人の言う事が一番手っ取り早い解決方法だと誰もが分かっているが、あの状態の皆木に果たしてそれができるかというと危ういのだ。伏見に連絡してきた苗字も然りだ。さんかくで仲直り〜、と言っている斑鳩にそれは門外ネ、と言ったシトロンだったが、瑠璃川に論外と訂正される。 「……監督」 「つ、綴くん!?ど、どうかした?」 扉から現れた皆木の顔からはすっかり生気が抜けていた。どん底に落ちた皆木だったが、風呂で今日のことを考えて、まずは立花に全てを話して女性の意見を聞こうと思ったのである。つまり、彼は完全に諦めたわけではない。今日、と皆木が話し始めると、しんとした空気が談話室を包んだ。 立花は話の途中で、古市や伏見とアイコンタクトをしていた。この拗れてしまった関係の修復を願っていることが、皆木の話より垣間見えたからである。本人がやる気をすっかり失ったわけではないのが何よりだ。斑鳩はうんうん、と大袈裟なくらいに相槌を打つ。シトロンや有栖川が所々で口を挟む。それは淀んだ空気を少しでも明るくしてくれた。皆木も救われていただろう。 「綴くんは謝りたいんだよね」 「当たり前っす!名前ちゃん、泣かせたんだし……」 「村人Cは結構短気なところあるよね」 「綴、実は、その本人から俺にLIMEが来てる。話をしたいって」 「え!名前ちゃんが……?俺がひどいことしたのに」 「グダグダ言ってねえで、面と向かってさっさと話した方がいいってことだ」 「その通りだよ。さて、元気の出る詩をここでひとつプレゼントしよう」 「監督を悲しませるのは許さない」 「ツヅル、ファイティン、ネ!」 |