秒針が止まらないように、咲かない花がないように、私を動かす何もかもが貴方


*女の子≠プロデューサー



別れを切り出されるのは時間の問題であることを充分に苗字は理解していた。桜庭が医学部に通っている時、彼女は彼に向かってアイドルになると言い出したのだった。当然のことながら、桜庭は今の四年制の大学に通った意味がどこにあるんだ、と彼女の道を正そうとした。彼の性格上、アイドルになることを真っ向から反対されることは分かっていたのだが、付き合っている男女の中で将来の道を隠すことなどできない。受け入れられなくて、別れを選ぶことになったとしても、自分が決めたことだから。そう彼女が決心して話をしてみれば、予想通りの答えだったわけだ。苗字の通う学部とは全く関係のないアイドルへの道を歩むことは、まるで茨の道を進むことと同じである。桜庭は、愛情表現が少ないものの全く恋人らしくないわけではない。控えめで分かりにくいが、彼なりにきちんと苗字のことを想ってくれているのも彼女は分かっていた。だからこそ、彼はアイドルの道を諦めさせようとしてくるのだった。ありがとう、薫。でも、わたしはどうしてもアイドルになりたいの。今でも薫のことは好きだけど、貴方に迷惑を掛けるくらいなら、さよならをするよ。桜庭は何も言わずに、荷物を纏めて出ていく彼女の姿をただただ黙って見ているだけだった。
荷物を片手に飛び出した苗字はもう、引き返すことなどできずにいた。あれだけ桜庭に宣言してしまったのだ。いまさら彼の元に帰ることなどできるはずがない。彼のことが好きだというのは本当のことで、アイドルになるというのも彼女の正直な気持ちなのだ。今晩の宿を探しつつ、ほっつき歩く苗字は海の見えるホテルへと足を踏み入れていた。まずは、オーディションを受けなくてはならない。それから住むところを探さなければ。
桜庭の元がどんなに居心地が良かったのか、さっき出てきたばかりなのに思い出されて胸が苦しかった。なかなか甘やかしてくれない桜庭が唯一甘やかしてくれるのは、ヘトヘトになりながら大学の課題をやり遂げたときのように、懸命に頑張った後である。そっぽを向いたまま、遠慮がちに広げられた腕の中で小動物のように身体を丸めれば、彼の手がそっと頭に、肩に下りてくる。その時、桜庭がどんな表情をしていたかなど、苗字は知らない。部屋に入って、ベッドに倒れ込んだ彼女はひとりシーツを濡らす。もう、あのぬくもりに二度と触れられないことを思い知らされてしまったから。しばらく泣き続けたあと、窓からぼんやりと海を眺めた。寄せては返す波に飛び込んでしまいたい。まだ、桜庭が心のどこかにいて腕を掴んで引き止めているように苗字は感じていた。行くべき場所を決めたというのに。







DRAMATIC STARSに何度目か、音楽番組への出演オファーが舞い込んできた。桜庭は喉の調子を確かめるためにスタジオを出て屋上でひとり、自分のパートを空に向かって歌っていた。随分前に別れた彼女に、アイドルになることを猛反対したクセに自分が今アイドルの道を進んでいるなんて。彼は太陽の眩しさに、眼鏡をそっと外して親指と人差し指で目頭を押さえた。どうしてあの時、背中を押してやれなかったのだろうか。現実的ではないと否定してしまったのだろうか。後悔は年々押し寄せてきて、桜庭を飲み込んでしまいそうなくらいだった。様々な理由の上で、自分がアイドルになると決めた時は特に。
不意に桜庭の背後でドアの開く音がする。音楽番組の収録の際、彼のように事前に声出しとリフレッシュを兼ねて屋上にやって来るアーティストが多いとプロデューサーから聞いたことを思い出した桜庭は、気にすることなく空の向こうを眺め続けた。



「か、おる……?」



自分の名前が紡がれるまで、振り向くことはなかった。数年前は毎日聞いていた声を忘れるはずがなく、桜庭はその声の聞こえる方へと勢いよく振り向く。課題が終わらずに愚痴を零しながら、あるいは泣きそうになりながら取り組んでいた彼女の姿がある。あの日、アイドルになる宣言をして桜庭の元から飛んでいくように姿を消した苗字が、信じられないといった表情を浮かべてそこに立っていた。



「名前」
「薫だ……!なんで?薫は、お医者さんに」
「名前……すまない。僕は名前の背中を押してやれなかった」
「待って、なんで薫が謝るの。おかしいでしょ。わたしが決めたんだからいいの」
「だが」
「薫、なんだか優しくなった?昔の薫もすきだけど、今の薫、もっと……」



そこまで言いかけた苗字は両手で自分自身の口を塞ぐ。まるで、これ以上口に出してはいけないと戒めるようだった。桜庭の隣にゆっくりと歩いてきた彼女の横顔は、もうアイドルそのもので、彼は声を掛けることもできなかった。空を見つめる苗字の瞳に、桜庭の存在はない。言葉はなかったが、そう言われているように感じた彼は眼鏡を掛け直すと、彼女が先程開けた扉のノブに手をかける。互いにアイドル同士だ。これ以上の詮索は野暮なことなのかもしれない。



「……薫」
「なんだ」
「あのね、わたし……」
「名前」
「ううん、やっぱりなんでもない。この後の収録、頑張ろうね」
「……名前、収録が終わったら電話をする」
「えっ」
「電話番号は変わったのか?」
「う、ううん……変わってないけど」
「そうか。なら、また後で」



彼女の耳には、桜庭の声と足音だけが聞こえてくる。近づいて来る足音に振り向くことができずにいる苗字の腕は、桜庭によって掴まれる。ぐいっと引っ張られた彼女は対応することもままならず、肩を抱かれる。眼鏡を取った桜庭がそこにいて、彼の顔が近づく。思わず目を瞑った彼女のくちびるには、昔の感触を思い出させるようなそれが一瞬だけくっついた。



Title:誰そ彼
Image song:蒼い鳥/如月千早
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