家族でも恋人でもない君は、誰より私を知っている


*女の子≠プロデューサー



目覚まし時計をセットしないまま、寝てしまっていたわたしだったけれど、寝る前に明日は絶対に寝坊しないこと、約束が楽しみで仕方ないことを言い聞かせていたので自然に目が覚めた。カーテンからまだ光は差し込んでいない。わたしの方が太陽よりも早起きしてやった、なんてガッツポーズを決めるとベッドから下りて支度を始める。実はというと、起動させたスマホが示す時間は当初の起床予定時間よりも随分早いものだった。でも、もう起きちゃったし、予定より早く家を出るのも悪くない。書きかけの楽譜を完成させる時間もありそう。
洋服を着替えて、洗顔、スキンケア、化粧を済ませたあとに髪型をセットして、歯ブラシを咥える。カーテンをそっと開けると、どんよりとした雲が広がっていて、しとしと雨が降っていた。太陽が寝坊したのではなく、厚い雲に邪魔されていただけらしい。新品のパンプスが汚れるのは嫌だけれど、彼に会うことを考えるとそのパンプスを履かずにはいられない。歯磨きを終えたわたしは、机の上の小さな電気を付けて、傍にあった羽根ペンを手に取る。楽譜にサラサラと書き込みながら、ハミングして確認する。昨日は行き詰っていた小節もどんどん埋まっていく。強弱記号や速度の指示も書き込んで、最後まで確認しながら歌い上げた。歌詞が上手く乗るだろうか、そんな心配事も吹っ飛ぶくらいにカッチリとはまり込んだ歌詞に思わず笑みが零れる。さあ、出掛けなきゃ。
元の位置に道具を片付けて、譜面が飛ばないように小鳥の重石を置くと、わたしは小さなショルダーバッグを手に取って、玄関へと向かう。雑誌に載っていたままの色と形をしたパンプスがわたしを迎えてくれた。扉を開けると、さっきまで降っていた雨が上がっていて、雲の切れ間から光の筋が差し込んできているのが見える。そんな光景に気分をよくしたわたしは、玄関の扉に鍵を掛けながら口ずさみ始める。自分が過去に作曲したものをメドレーにしながら、パンプスの陽気なリズムと共に歩く。わたしの行く先には大きな虹が綺麗な弧を描いている。ちょうど待ち合わせの場所に着く頃には、彼の曲を歌っていて、すっかり晴れ空になっていた。



「都築さーん」
「やあ」
「濡れてませんか?」
「今日はいい天気だから」
「ふふ、そうですね」



すっと持ち上がった都築さんの指先は、まるでタクトを持っているようでわたしはそれを目で追いかける。楽譜なんてそこにはないのに、彼はあたかも譜面を辿って踊る。そんな風に指揮を取っているようだった。それは、わたしが先程まで人目を気にすることなく、高らかに歌っていた曲だ。あの曲のスタートは、ヴァイオリンとピアノが追いかけっこするようで、曲の流れが印象的だと思う。都築さんのピアノを生で聴いたことは未だにないけれど、彼がピアノを演奏する姿は容易に想像できた。しなやかに白と黒の鍵盤の上を走る指は、観客の目を離してくれないだろう。
わたしの歌に、都築さんの指揮。そして、小鳥の囀り、葉の擦れる音。彼が歩く場所は全てが音楽の世界になりうるといっても過言ではない。人々の声だって、交通機関の音だって、彼の中では譜面に踊る音符たちなのだ。掴みどころのないミステリアスな雰囲気も、彼の魅力のひとつだと思う。そんな雰囲気に呑まれてしまったそのうちの一人が、わたしだった。



「名前さん、今日はどんな音に出会えるだろうか」
「それはわたしにも分かりません」
「そうだね。だからこそ、楽しいのかもしれない」



Title:誰そ彼
Image song:ハミングロード/萩原雪歩
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