朝が夜を喰らい尽くしてしまう前に
*女の子≠プロデューサー
「綺麗な月ね」
満月の下で呟かれた言葉が、風に吹かれては消えゆく。とあるホテルの一室。ベランダに並んで立つ男女の間の言葉は指折り数えるほどしかない。彼らには余計な言葉も必要ないのだ。長身の男は、ベランダの淵に頬をつくために大きく背を曲げる。隣で月を見上げる女の横顔を見つめながら、小さく息を吐く。随分と高いフロアに案内された二人は、目を合わせない。もうすぐ日が変わろうとする都会は、時間を意識させない程には眩しかった。日曜日を迎える街は、賑やかで騒がしく煌びやかなのだ。女はこの数分後に静まり返る光景を眺めるのが好きだった。その光景を目にすることができるのは、細めた瞳で射抜いてくる男が隣にいるときだけである。恋愛を幾つもこなしてきた女だが、この時ばかりは心臓が嫌になるほど煩いのだ。助手席に座って非日常へ誘ったのは彼女でも、本当に余裕を持っているのは男の方に間違いなかった。
女はまるで猫のような生き物だ。気まぐれな彼女が彼に連絡をよこすのは、休みの前日に突然その手を伸ばして、まるで伸びきった爪で引っかき傷を残すようだった。だが、男は彼女に噛まれることもなく、ましてや傷一つなく、逆に彼女を丸め込んでしまう。何度も繰り返されるそれに飽きない彼女は、今日も懲りずに連絡をよこしたのだ。雨彦、会いたいの。ただその一言に尽きる。言葉にすることが得意ではない彼女のことを熟知している男は、反論することもなく、女の手を絡め取ってしまうのだ。それは、まるで手錠をかけるように。開錠するための鍵は、男の手の中だ。
「……風が冷たくなってきたな」
こくり、と頷いた女は男を部屋の中へ押し込むように背中に身体をくっつける。猫のような性格といったが、同時に彼女はとてつもない不安に襲われているのだ。いつか、この手錠が外されてしまう日が来るのではないかと。ベッドに沈み込んだ二人きりの部屋でも、その不安は決して消えることはない。女も読めない人間だが、それ以上に男の方も何を考えているか分からない表情ばかりなのだ。彼らの間を邪魔する物など、一握もないというのに。
白いシーツが波打ち、用意されていた枕はひとつ、床へと落とされる。傍にあった電気のスイッチを男の指がぐっと押し込めば、街の明かりがぱっと消えるのと同じように、部屋は暗闇に包まれる。深夜を知らせる音が小さく響く。目を開いていても、ぼんやりとしか互いの姿は見えないというのに、男の手は的確な場所を狙って蠢く。彼女の頬をつついたあと、首を通って鎖骨までその指を下ろす。少し伸びている爪で女の鎖骨を軽くなぞれば、くすぐったいのか、彼女が小さく悲鳴のようなものを上げる。だが、それは本当に嫌がっているものではなく、むしろ悦んでいるのだ。
「……名前」
低い声が女の耳元で囁く。名前を紡がれることに安心感を刷り込まれている彼女の身体は、少しばかり硬くなっていたが、やがて段々と解れていった。鍵のかかったこの部屋に誰も侵入することは叶わない。彼らはその中で、今夜を楽しむのだ。それは互いに、相手の気持ちを確かめるため。ボタンを外しても構わないかい、毎回男は必ずその言葉を発する。悪いなんて言うわけないでしょ、それに対する女の返答も全く一緒だ。
「そういえば、名前がベッドの上で文句を言うのは聞いたことないな」
「雨彦に任せているのよ」
「ん、そうかい」
「……可愛くない女って思った?」
「名前はすぐそういうことを言うな」
「雨彦は何を考えているか分からないから」
「なに、すぐに分かるさ」
しんと静まり返った中で、ボタンの外される音だけが部屋を支配する。それっきり、彼らは言葉を交さなかった。女の素肌が晒されたあとに聞こえるのは、リップ音だけだ。熱い夜が、今日も幕を開ける。
Title:ジャベリン
Image song:Hotel Moonside/飯田友子