誘惑大戦争


*女の子≠プロデューサー



「お待たせ、苗字ちゃん」
「次郎せんせ!久しぶりー」
「敬語使えないのは変わらないねえ」
「だって、もう先生は教師じゃないし、アイドルじゃん」
「いやいや、年上は敬うものでしょ。はざま先生に叱られるよ」
「やだー、堅物先生こわーい」



先日、S.E.Mはファン交流と称して小さなイベントのステージに立っていた。元教師ユニットということもあり、彼らの教え子の姿もチラチラと見受けられる。山下は気恥ずかしさを感じていたものの、硲や舞田に引っ張られるようにしてそのステージを終えた。その後、撤収作業を手伝っていると山下がよく面倒を見ていた苗字が現れたのである。化学分野で悲惨な点ばかり取っていたものの、山下が教えるようになってから点数が伸びていき、驚くことに卒業前の化学テストだけは学年一位を奪っていったのだ。その時の、硲の呆れ顔を山下は忘れられない。卒業式が終わった後も、アイドルとして活動し始めた時も、彼女の話題は度々上がる。
苗字は山下の前で宣言していたことがある。自分はこれから教職の道に進んで、いつの日か教壇に立つと。しかし、彼女の今の雰囲気からはどうにも教師というイメージは遠く、山下は苦笑いを浮かべる。いくら教育学部に行ったからといって、人間性というものはすぐに変わるものではない。最低限、世間が作り上げた像である教師らしさは持っておかないと後々困るのは彼女だ。



「苗字ちゃん、何かつけてない?」
「んー?」



苗字はなんでもないような顔をしていたものの、山下の指摘は間違っていない。彼女はこの日のために用意していた香水を全身に纏っていたのだから。相手が一回り以上歳上の男だとして怯まない。細められた瞳は、苗字が実験を楽しんでいる表情を山下に思い出させる。口には出さないが、何かを楽しんでいる時、彼女はあんな顔をする。それにしても、高校を卒業しただけで随分と大人の表情ができるようになったもんだと山下は変なところで感動していた。
しばらくたわいもない話を続けながら、山下はコーヒーを飲み干す。彼女はストローでオレンジジュースをゆっくりと啜り続ける。こういうところはまだまだ子ども、そう彼は心の中で呟いてメニューを眺める。ついでに夕飯もここで済ませようという気になったからだ。カラン、と氷同士がぶつかる音が鳴った。



「次郎せんせ、わたし課題があるからそろそろ帰るね。今日は来てくれて本当にありがとう……ううん、ありがとうございました」
「えっ」
「もう帰っちゃ寂しい?」
「え、ええ……いや別にそういうわけじゃないけど、夜ご飯も食べるかなって思ってたからさ」
「本当は課題、急がなくてもいいんだけど、先生の時間とっちゃ悪いかなって思ったの」
「そうなの。苗字ちゃんもちょっとは真面目になったんだねえ」
「学校の先生目指してますから!」



山下の鼻を掠めるのは彼女と会った時にも香ったものだ。脳髄が溶かされそうな程に甘い香りは最初の方こそ少し距離を置きたかったが、今となっては気にならなくなっていた。むしろ、この香りに吸い寄せられていくように山下は感じていた。目の前で制服を着ていた少女はもういない。今、笑っているのは大人の女だ。



「……おじさん、今日はオフだから時間あるんだけどね」



プリントや問題集に向かって唸りながらシャープペンシルを持っていた彼女の手首を、昔からずっと細っこいと思っていた山下だったが、苗字を引き留めるために掴んだ腕も男とは違うものだと彼に主張する。そして、彼はハッとする。自分の言葉も、行動も、全ては彼女を引き留めることに繋がっているのだから。大人の女の妖艶な笑みと、大人の男の戸惑った表情。余裕があるのは随分と若い女の方だった。ふー、と彼女の吐息がほんの少しだけ彼を擽る。山下は、掴んでいた腕をそっと離した。なぜなら、さっきまで椅子から立ち上がっていた彼女が座り直したからだった。



「今日は、俺の奢り」
「やったー!次郎せんせ、ありがと!だいすき!」
「こらこら、そういうことを簡単に言っちゃダメ」
「えー?本当のことなのに」



山下の瞳の奥で、悩ましげに揺れる彼女の姿はもうすっかり高校生の少女を忘れさせていた。苗字は彼から手渡されたメニュー表を眺めながら、頬杖をつく。ちょっぴり狡いことをしたと思ったが、相手は三十を過ぎた大人だ。このくらい自分が背伸びをしなければ、振り向いてはもらえない。アイドルでも、教師でも、山下次郎という人間は変わらない。先生、と彼女は呟く。頭から瞳までを、メニュー表から覗かせた苗字はじっと山下の方を見る。困ったように笑っている彼を見ながら、声を出さずに口だけを動かす。好き、と。



Title:誰そ彼
Image song:秘密のトワレ/一ノ瀬志希
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