震えるまつげ、そして涙が海になる


*女の子≠プロデューサー



廊下を曲がると、職員室の前で硲先生と同じ数学の女の先生が会話をしていた。わたしは角にさっと隠れる。別に悪いことをしているわけではないけれど、瞬間的に隠れなきゃという気持ちに駆られた。プリントを覗き込む彼らの距離は物凄く近い。女の先生は男子高校生から絶大な人気を誇り、女子高校生からは美貌の秘訣を聞かれるような人だ。対して、硲先生は大変真面目な性格で、どちらかというと皆が避けたがるタイプの先生だった。厳しいことで有名だ。でも、それにはきちんと理由があることをわたしは知っている。闇雲にそんな風に接しているのではない。
話し終わったのか、くるりと向きを変えた硲先生はこちらに向かって歩いてくるのが見えたので、わたしは急いで階段を駆け上がる。見つかったら、走ってはいけないと怒られてしまうかもしれない。でも、今のわたしは先生の前で汚い感情だけしか出せない。笑顔を作ることすら、できない。そんな姿を見せたくないから、逃げるしかないのだ。あの女の先生は、硲先生のこと、好きなのかな。硲先生は年下がタイプかな。年の差はわたしがいくら頑張ったとしても、どうにもできない問題だ。わたしがもっと、硲先生と近い歳だったらどんなに良かっただろう。真面目な先生だからこそ、わたしの想いを受け止めてくれることはないに決まっている。
自分の教室に戻って、手に持っていた数学の教科書とノートを机に叩きつければ、ノートは音を立てて落ちていく。じんわりと滲んでいた涙は我慢できずに、教科書の上にぽたりぽたりと零れた。硲先生のこと、いつから好きになっちゃったんだろう。前は、先生の姿を見て、話をして、授業を受けたりして。それから、テストでいい点を取って褒めてもらったり。些細なことで良かったはずなのに、今は足りなくなってきている。今年、大学受験を控えているというのに、集中できないのはそのせいもあるのかもしれない。硲先生に全ての答え合わせをしてもらえたら、楽になるのだろうか。心を蝕むこの痛みの正体を世間一般的になんと言うか、それだけは知っている。







複雑な想いを抱えたまま、時は過ぎていく。時間を操れる超能力を持っているわけではないから、あっという間に大学受験は終わって、今日は卒業式だ。硲先生には結局この気持ちを伝えることができないままだった。でも、高校生でなくなってしまえば、硲先生は受け取ってくれるかもしれない。そんなことを思いながら、卒業証書を授与され、壇上を下りて自分の席へと戻っていく。いつものようにかっちりとスーツを着た硲先生は小さく手を叩いて、わたしを見送ってくれた。それは、たくさんいる卒業生の内のひとり、という認識に過ぎないのだろうけれど。こうやって毎年送り出した学生のひとり、とだけ先生の記憶に残るのだ。そんなの、耐えられなかった。高校を卒業しても、硲先生と一緒にいたい。会えるチャンスが欲しい。
式の終わったあと、写真を撮ったり、泣きながら抱き合う同級生たちが作る人混みを掻き分けて、先生の姿を探した。先生、どこにいるの。風の噂で聞いたのだけど、先生を辞めるって本当なの。アイドルになっちゃったら、完全に手が届かない存在になってしまうよ。舞田先生の高い声が聞こえて、わたしはその方向を振り向いた。舞田先生に、山下先生がいる。あの先生たちと一緒にアイドルやるって、本当なの。



「ふむ」
「……あっ、硲先生」
「二人に用事があるのだろう」
「ち、違います!用事があるのは」



制服を最後に着るのは今日だ。スカートをぎゅっと握って、硲先生の眼鏡の奥を見やる。不思議そうにしている先生に、今まで絶対知られることのなかった想いを伝えなきゃ。膨らみすぎて、爆発してしまいそうな想いを全て。甲高い声で鳴いた鳥がわたしの後ろ側から、硲先生の背中に広がる大空へ翔けてゆく。雲にひとつ穴でも空けるような勢いは、風と共にわたしの背中をそっと押してくれた。ねえ、先生。わたしの想いを聞いてくれますか。



Title:誰そ彼
Image song:こいかぜ/高垣楓
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